群青と幽霊
――硬いマットレスの寝心地は、知っている、よく馴染んだかたちに撓んで横臥した折原の背を受け止める。青年は寝乱れた髪を適当に持ち上げ、無造作にかき乱しては、昨夜の酒の残った重苦しいかんじのする胃を抱えつつ、怠惰げにベッドでいくつか寝返りをうった。遠くからは滔滔と鳴く、所在のない野良犬の吼える声が聞こえている。
「……まだ、いるよね。そこに」
青年が話しかけるのは、いわゆる藪の中、正体の見えぬ亡羊としたくらがりに向けてである。有名な小説みたいに、そこがブラックボックスみたいになっていて、知らない人が返事を返してくれればいいのに、と思う青年は、姿こそはまだ高校生のかたちを取っていて年若い、甘えそこなった猫みたいな不快げな声をしている。行くてを失って清潔なシーツに落ちた手のひらが、頼りのない、ぱたりという音をたてた。折原はたぶん、少しだけ疲れている。年若い彼にとって、夜がいつも憂鬱の種にしかなりえないように。
「君が考えてることを当てようか」
いつまででもひとりで話す青年の声は、気丈げに楽しさを模そうとしている。群青は明け、曇天の朝が彼らの学生服をただ象徴的に照らし出す。うすぐらく。まだらに。ただの飾りのように記された、釦のいくつかを気まぐれにぎらりと光らせたりもして。
「後悔」
横臥した青年のただ長いゆびさきが、硬いだけのマットレスを神経質に一つうった。
「嫌悪、同情」
ふたつ、みっつ。
藪の奥底にひそむどうしようもない影に、文学的な暗喩を探しては陰鬱になる彼らの季節が今日もやはり漫然と送られてゆく。無為と、有為と、誇りと、惨めさとを等しく舐め回して鋭い刃でひととおり傷つけては。
「……、」
「何も言わないのは優しさじゃないって、君はいい加減気づくべきだ。ねえ、門田京平」
魔もののような声だった。藪の中の、朝方酒を飲みすぎて珍しくめちゃくちゃに吐いた折原を助けた形の同級生は、腕組みをしたまま折原のいくつかの部屋のうちのひとつの、マンションの壁に持たれている。その屈することを知らない目。理性者ぶった美しい背すじ。折原はマットレスを三回だけ叩いてから、それから、もう飽きてしまいましたよというようにその手すら布団の上に投げてしまった。門田は携帯電話をいじるでもなく、退屈そうなそぶりを見せるでもなく、折原が再び眠りに就く瞬間を見定めようとするようにただじっと待っている。彼の美しさ。彼の公正さ。
門田の、公正は、折原の好むものではなかった。平和島の正義も、新羅の狂気じみた日和見も、折原は誰の主義だって好んだためしなどないけれど。
いま折原がうわばみのように飲み続けているのは人間というただの形で、そこに根をはる各々の主張なんて、総意でないと聴き入れない自分に折原は最近になって気がついている。――博愛とは、一人一人の人生を掘り下げる行為とあくまでも反しているのだ。
「折原」
「苗字は好きじゃない。臨也でいいよ」
「……臨也」
「素直だねえ。なに。説教なら聞かない」
「どうせ聞かねえだろう。お前に言うことが見あたらないから、帰ろうと思ってさえいるよ、俺は」
「帰ればいいのに」
「もう少しいるさ」
「……おもてなしも、できませんで」
「期待してない」
「そう」
しんしんと夜が明けて、薄汚れたま新しい朝が暗いコントラストで街中を遮っている。折原の、高校三年にしてすでに自分名義で持っているマンションの無為に広い一部屋にすら、曇天をかいくぐって光は射した。
学校では馬鹿な会話しかしない彼らの夜と朝は、年相応の感情に満ち満ちている。
「君は誰にも何ものをも求めていないんだろう」
「そうでもない」
「誰にも、すべてを求める俺とはまったくの逆だ」
「……それも、そうでも、ないだろう?」
誰の主義も好まないことにしている折原臨也は、それでも門田京平というこの同級生のことをかなり気にいっている。それは彼が、折原のことをいつだって的確に傷つけてくれるからで、傷をつけているという行為すら、自分では自覚していないところが特に最高に好きだと思う。
門田はいつだって、主張を押し付けないように控えめに話をした。だけれどその奥には誰にだって見える、堅く高く林立した芯のようなものがあった。折原の軽薄さと対比するようなその彼の生き方を、どうしても嫌いになれないのはきっと、彼の公正さが、彼の優しさが誰の下にも平等に降り注ぐせいだ。どうしようもない。一時的な優しさに惹かれない人間なんて、「人間」である限り、きっとこの世にはいないだろうから。
彼の優しさはいつだって折原を癒した。彼の公正さはいつだって折原を傷つけた。無数のちいさな傷跡と絆創膏が、折原の、肌理の細かい不自然に白い肌を傷つけてはさざなみのように去ってゆく。
折原の、手に、まだらに射した陽光の一遍が触れた。それでも退室をしない門田の優しさみたいなものを折原は吐瀉物の名残の中で感じてはいたけれども、そこから、物語は停滞し続けることも知っている。
世界や人間は物語でも、一個人が物語になり得ぬことを折原はかたくなに信じていて、彼の青さが多くの人間や自分を傷つけていることをもまた、彼は勿論知っている。多くを踏み潰して登った高台から見える景色が人間の墓場のようなところだとして、しかし好き勝手に生き続ける人間のうちの、いったい誰が自分を責められよう!
青い、ただ青い、折原の思考は散漫になって皺のあるシーツの隙間に消えた。価値のない幽霊みたいな考えに、いつだってとりつかれて生きている。決定的に論破されることを、いつだって少し夢見ている。
滔滔と、犬の所在なさげに吼える声がした。門田の姿勢は揺らがない。会話はない。物語がはじまる気配はついぞなく、たとえば恋愛の一片ですら物語とは言い難いひねくれた折原の、朝は今日もずたずたに裂かれて理知的のフェイクをまとってはじまる。
ぬくもりに満ちているだろう藪の気配を、見て見ぬふりをして些細な、朝だけが折原の中の空洞を満たした。
青い思考の亡霊がさまよう、かたいベッドで迎える朝だ。
10.0810