ある晴れた夏に
蝉が鳴き出して、太陽が目を焼いて、風鈴が空気を揺らす、自然に思考を止められる。夏はいつだって優しい。世界と自分とを分ける境界の曖昧さが、汗の塩気に溶けていく、風の通らない台所で、額から落ちた汗が落ちる、裸足が畳から板の間へ踏み込んで、日陰の冷たさを知り、完全に日の当たらない水場、小さな窓からは風も吹かない、響くのは蝉の声ばかり。
納屋から取り出してきた大きなまな板の上に、既にそれは乗せてあった。滅多に開かない袋戸棚から出した大きな包丁は少し錆が付いていて、まず砥石を使う、蛇口をひねって出た水もぬるく、包丁の錆が水に混じって、赤黒く排水溝へ流れていく。砥いだ包丁を、指でなぞってみた、糸のように細く指先が切れ、染み出た赤い液体が一滴、錆に馴染んで鼻孔を犯す。
遠くで風鈴が鳴る。額の汗を二の腕の、たすきで止めた袖口で拭い、獲物に包丁を差し込む。蝉の声ばかり耳を突く中、ぴくりとも動かない獲物を、馬か鯨と同じ要領で解体していく、取り出した内臓に汗が落ちて、跳ね返った雫は唇に付き、舐めた舌に感じる赤い味。包丁は途中で刃がやられて、三度砥ぎ直しせねばならなかった。解体した肉を、部位ごとに袋わけして冷蔵庫に入れる。もう二度と手に入らない肉、丁寧に納め、扉を閉める。血にまみれたまな板の上に、残しておいたのは腰肉と、心臓。新鮮なうちに食べねばならない、早く、早く。心臓を馬刺しと同じように薄く切り、しその葉を添えて皿に盛る。小皿に醤油とすり生姜。腰の肉は細かく切り、鯨肉のようにゆがいて小松菜と一緒におひたしにした。
蝉の声が耳を塞ぐ、したたる汗はもう拭わない、片付けは後回し、たすきを解いて、皿と箸を食卓に運ぶ。畳の上に直に正座をし、無言でいただきますと手を合わす。右手で箸をとり、左手で受け、右手で持ち直し、そして心臓の刺身に先を付けた。右手に感じる確かな重み。感じない鼓動。醤油の小皿に一度浸し、持ち上げる、渇いた口内、唾を飲み込む、蝉が鳴いている、動かない唇を舌で湿す、太陽が陰る、小さく開けた口に、そっと肉が触れる、舌の動きで誘って、口腔に入れる、歯には力が入らず、ただ喉仏だけを動かして飲み込む。
風鈴の音が涼しい。雲に遮られ暗い和室。畳の熱気に焼ける香ばしさと、血のにおい、肉のにおい、赤い、赤く錆びついた刀で懐かしい記憶を突くにおい。目をつむる、耳の中で鳴る蝉の残響、汗でにじんだ手にぬるい箸の重さ、曖昧で複雑なにおい、舌の上の、圧倒的な、存在。雲が目蓋をめしいさす。蝉が、飛んで、静寂。ぽつりと、一粒。涙が、落ちる。