そして去り逝く者
たゆたい、微睡むように、真っ白い霧の向こうの夢を見る。
妻が笑っている。
腕に抱かれている娘も笑っている。此方を見て、両手を差し伸べて。
愛おしい掛け替えの無い俺の家族。
俺の夢、希望、そして光。胸の縁から暖めてくれる奇跡のような存在。
優しく、柔らかい腕で癒してくれる妻グレイシアと、その妻に似て愛くるしい娘エリシア。
二人の笑みにつられるように微笑が浮かぶ。求められるままに、腕を伸ばし、触れようとした。
瞬間、たった今目の前に居たのに、どんどん二人が遠ざかって行く。幸せな笑顔で、俺を置いて。
少しでも近づこうとするが、何故か足が冷えて鉛のように重い。一歩も動かせない程に。
(何だあ?何で動かないんだ)
次第に小さくなって行く二人に焦りが募るが、どうにも動けず立ち尽くすばかり。今ではもう欠片も見えない。
白い、どこまでも白い空間に一人きりになった。見送るしか出来なかった自分に不甲斐ない情けなさを感じつつ、どこかぼんやりした頭で考える。
(こんなこと、前にもあった気がするな……。何だっけ)
ああ、そうだあの時か。殲滅戦、あの時にもこんな状況があった気がする。て云うとこりゃ夢か?
以前は汗だくで魘されている処を起こされて目が覚めた。
……そう、「うるさい!」って拳で起こされたっけ。
思い起こした瞬間に、幻のように黒髪の親友が現れる。当時と然程変わらぬ立ち姿の上官を見て、ヒューズはつくづくと此れが夢だということを実感した。
(俺もそうだが、お前も変わらねえな、あの頃と……)
懐かしさに顔が綻ぶ。
優秀で、度胸もあって、野心家で。なのに結構、情熱家で抜けてて面倒臭がりで。
ふと常に傍らに居る副官の心労を思い至って苦笑う。
(仕方ねえよなあ、男ってのは女に心配ばかり掛けるような生き物だから)
勘弁してやってくれ。
そっと呟く。
目の前に居る旧来ともに戦ってきた友をしみじみと見ていると、何時も見せる不遜な笑みとは違う表情を見つけた。
静かに水底を這う波間のように、暗い翳が浮いている。
ヒューズは無意識に手を差し伸べていた。触れぬ頬を慰撫するように。
(すまねえな、とうとうお前の気持ちに応えることが出来なかった……)
妻を愛している。
娘を愛している。
そして二人とは違う気持ちでお前を愛してるよ……。
ヒューズの掌に頬を傾けていたロイは、頷くようにゆっくりと眼を閉じた。微かに笑むと、再び瞼を開きヒューズを見る。
眼を合わせ、静かに敬礼し踵を返す。ゆっくりと、振り返ることのない真っ直ぐな背中を見て、ヒューズは伸ばした手を力無く落とした。
(お前も、行くのか……)
動けぬ俺を見捨て、見限って。
突然凍えるような空虚さを感じて、ヒューズはその場に座り込んだ。何故かしきりに左肩が痛む。
あまりの痛みに右手で左肩を抑えると、ぬるりとした濡れた感触に驚いた。見ると、絶え間なく血が流れ落ちている。
慌てて己の体を見渡すと、上体の左右胸の中央からもしきりに血が溢れていた。
ヒューズは突如、理解する。
ああ、違う、逆だ……。
(お前達じゃなくて、俺がお前達を置いて往くのか……)
そのことに気づいた途端、霧が晴れたように辺りの様子が一変した。
何処までも白かった景色が、よく見慣れた職場近くの公衆電話内に移り変わる。
見慣れたと云っても、ドアに向かって座り込んだ視界をそう見ることはないだろうが。
夜に包まれた中を一筋の街灯が辺りを照らす。
その光に誘われるように微かに眼を開けると、闇の中、血溜まりに蹲る自分が居た。
自分は死ぬのだと、遠い意識でそう思った。恐怖は、それほど無い。ただひたすら眠いだけだ。
現実を認識するのと同時に、思考がぼやけてきた。
さっきまで痛いほどに冷たく感じた手足は、既に感覚が無く、痛みを感知することも、もう出来ない。
耐え難い疲労感に襲われながら視線を足元に移すと、そこには幸せの象徴が佇んでいた。
三人並んで、曇り無き笑顔で。
(……すまねえグレイシア。ドジ踏んじまった)
物云わぬ写真に謝る。持ち主の意に沿わず、只の木偶となったこの体では、写真を拾い上げることも、もう抱きしめてやることも出来ない。酷い悔恨が突き上げる。
許してくれなんて云えない。怒っていい、憎んでくれても構わない。こんな男のことなど忘れてもいいから。
けれど、どうか、幸せに————。
それが最後の願い。
気持ちだけの溜息を吐いて、瞼を閉じる。じわじわと忍び寄る冷たい眠気に抗いながら、脳裏に通り過ぎ行く記憶を惜しんだ。
さらさらと掌から零れ落ちる砂のように消えていく記憶の遙か底に、寂しい眼差しの、孤独な影を見た。
悪いな、俺は、先に行く————。
背中を守ると、そう約束したのに、どうやら神様は許さないらしい。
薄く笑って、ヒューズは意識を手放した。
辺りは闇、落ちるは静寂。
傍らには、一枚の写真。
明かりに照らされ、浮かび上がる血塗れの男は、凄惨な惨状に似合わぬ笑みを浮かべ眠るように其処にあった。
すべての謎を抱えたまま、去って逝った————。
ゴルゴダの丘とは、きっとこんな風景だったに違いない。そう思わせる丘陵地で、一つの墓を前に黒い青年は佇み思う。
「お前は相変わらず人の話を聞かない」
野望が叶うまで、傍で支え続けると云った人間が先に逝ってどうする。
「大馬鹿者」
だが、お前が居なくても俺の道は続いている。どれほど険しかろうと、歩み続けてみせる。だから、
「そのついでだ。お前の仇討ちなんて」
掴み所のなかった友人を想う。
今度、此処に来る時はお前の仇の首を持参しよう。必ず。だからそれまでは安らかに眠れ。時が来たら、また力ずくで起こしてやるから。
噛み締めるように心に刻み込むと、鋭く踵を返し、立ち去った。
聖なる沈黙が包む丘で、十字架に掲げられた花が微かに揺れる。
振り返るものは、何処にも、居ない————。
男は夢を見ていた。
たゆたい、微睡むように、幻のような遠い記憶を夢に見た。
孤独を映し取った黒い瞳で追い掛けた夢は、果てしなく遠く、過ぎ去りしものは、痛みを伴い失われ往く。見守る者は既になく、ただ一人、歩き出した。
今は易しい夢ではなく、残酷なまでの現実を見据えて。