罪深いわたしを許して
「跡部って、忍足と付き合ってるんじゃなかったの」
慈郎は、机に肘を付いて窓の外、遠くを眺めている跡部の後ろから圧し掛かって、首元に顔を埋め深く息を吸った。跡部は、特に返事をするでもなく、慈郎の好きにさせている。
「ここんとこ、ずっと跡部から女の匂いがするよ」
跡部は、一つ瞬きをして慈郎を安心させるように笑うと、すぐそこにある慈郎の頭を撫ぜた。
「別に別れた訳じゃねえから」
慈郎の窺うような眼に苦笑う。もう一度、柔らかい猫毛を撫でた。
「心配すんな」
決して他には見せることのない表情で笑う。きっと、忍足ですら滅多に見ることが敵わないその笑顔を、跡部は惜し気もなく慈郎に与える。しかしそれは、慈郎に対して特別に心を許しているということではなく、これ以上踏み込ませないための、優しい線引きだった。そっとして置いて欲しい、という跡部の気持ちを無視できる筈もなく、結局慈郎は口を噤んで、抱き締める腕に力を込めることしか出来ない。
「お前が心配するようなことは、何もねえよ」
穏やかで、酷く優しい言葉に、慈郎は無言で唇を噛み締めた。
そうして思う。
(跡部は、凄くずるい)
部活を引退すると、放課後は時間を持て余してしまう。そんな時、特に示し合わせた訳でもないのに、旧レギュラー陣は、構内のカフェテリアで雑談をするのが常だった。
しかし最近は、そのメンバーの中に何故か忍足までが交ざり、岳人や宍戸の不審をかっていた。別に忍足が居たらどう、という訳でもないが、彼の傍に誰も居ないということが酷く落ち着かない。
何時もなら、必ずあの不遜な笑みを浮かべた跡部が居るというのに。暫く二人が一緒の処を見ていないことに気付いて、岳人と宍戸は顔を見合わせた。慈郎は、きっと何か知っているに違いないのに、その話題に触れるとさっさと眠ってしまう。
何だかとても、怪しかった。
「なあ侑士、……跡部と、喧嘩でもしたのか?」
岳人が恐る恐るといったように問い掛ける。宍戸も、彼らしくもなく些か躊躇いがちで後に続けた。
「跡部の奴、今日も外部の女と帰って行ったぜ。もうずっとそんなだろ、お前ら」
忍足は、何も云わず静かに笑うばかり。
「……別れた、のか?」
宍戸は、自分でも有り得ないと思いつつ問い重ねる。
「別れたんとちゃうよ」
そんなんじゃない。
ゆっくりと否定して首を振る忍足の顔に、憔悴の影が見えて、宍戸も岳人も言葉に詰まった。けれど、今まで寝てるとばかり思っていた慈郎が、突如言葉を発する。
「別れた方がいいんじゃない」
ぎょっとする仲間二人を残して、慈郎と忍足は向き合う。
「このまま無理してたら、二人とも駄目になっちゃうよ」
何時になく鋭い口調で、慈郎は忍足に切り込んだ。
「無理、してるように見えるんか」
まるで責めるような慈郎とは反対に、忍足は何処か亡羊とした表情で、少しも動揺するような気配が感じられない。言葉は返しても、果たして此方のことを認識しているのかどうか疑わしい面持ちだった。そんな忍足の常ならざる様子に、慈郎は、何処か哀れむように表情を和らげる。
「おれ、跡部が大好き。そんで凄く大事。でも忍足も大事。跡部が忍足のこと凄く大切にしてるから」
何時もかわしてばかりで、胸の内を語らない慈郎な言葉に、忍足は驚いた。
「ジロー……」
「だから二人には毎日笑っていて欲しいし、幸せに、なって欲しいよ」
慈郎の柔らかな口調が、労りを持って忍足の心を暖めた。
「ジローはほんま、跡部のこと好きなんやな……」
「そだよ。ずっとずっと見てきたんだ。跡部が、忍足を好きだって云うから、おれの居場所、忍足に譲ったのに」
あんなに激しく跡部を奪っておいて、今更手を引こうなんて許さない。
忍足は、子供のように膨れた慈郎をあやすように笑いながら、今度ははっきりとした面持ちで告げた。
「離せへんよ」
くしゃり、と慈郎の頭を撫でる。その仕種は、先ほど跡部にされたものと同じ感触でもって、慈郎を切なくさせる。思わず涙が零れそうになって、唇を噛んだ。
「絶対に、離さへん」
確固たる決意を感じさせる、忍足の言葉の真意は判らぬものの宍戸達も頷く。
忍足は、それぞれの表情を眺めて、ふわり、と微笑んだ。
最近、跡部から自分のものではない香りが漂う。
疲れ果て、半ば気を失うように眠り込む跡部を、忍足は薄闇の中、傍らで見詰めている。
跡部が、頻繁に女を抱くことに対して、忍足は少しも咎める気はなかった。むしろ、そこまで追い込まれている跡部が可哀想だと思う。気の毒だと、他人事のように感じるだけ。
男が男に抱かれるという常軌を逸した行為は、彼ほど誇り高い人間にとって、耐え難い屈辱を覚えるらしく、蕩けるような快楽の最中、何度彼の殺意を感じことだろう。けれど、それを捻じ曲げ、抑え付けてまで抱かれる彼の想いを悦ぶ自分が居る。
愛されているのだと、実感する。
女を抱くことで抱かれる自分を消し去り、雄としての矜持を保つ跡部。そうせねばならぬ程追い詰めながら、そのことに見て見ぬ振りをする自分。喩え、他人からは奇異に見えても、それは互いにとって必要な行為であった。
己のエゴで絡めて、縛り付けて、それでどうして跡部を責めることができるというのか。自分には、その権利も資格もある筈がない。好きだと告げて、唇で捕えて、腕で囲い込んで、躊躇いながら傍に居続ける跡部の優しさに付け込み、馴らして、撫でて、体に覚え込ませるように愛した。
総ては己の倦んだ心を癒すために。
跡部はそんなあざとさに満ちた自分の愛し方を許し、受け入れた。
忍足は、指先を絡めたまま跡部の手を持ち上げ、震える唇で、そっと触れる。
きっと、自分に逢わなければ、跡部は彼自身のままで居られた。
何処も、何も損なうことなく、輝く存在で居られたに違いない。
けれど、出逢ってしまった。
過ぎた時間を戻すことが出来ないのなら、このまま歩き続けるしかないだろう。
そして、自分はもう、引き返すことが出来ない処まで来てしまっている。
望んで、奪い取るように得たこの手を手放す気は毛頭ない。
喩え嫌われ、厭われ、憎まれ、許してと哀願されたとしても。
「ごめんなぁ……」
好きになって、ごめん。
握り込んだ手に力を込める。
擦れる声音の、聴く者の居ない懺悔が冷えた暗闇に響いた。
「でも……」
忍足は、まるで祈るようにゆっくりと、眼を、閉じる。
「もう、離れられんのや」
その様は、敬虔な信者の祈りにも、盲いた者が光を厭うような仕種にも見えたが、実際は、要らぬ現実から遠ざかりたかったのかもしれない。
この欺瞞だらけで、苦しいだけの道程に引き摺り込んだ罪の重さに、押し潰されそうになる。
せめて見失わないよう、置いて行かぬよう、手を握り締めて歩くから。
疲れ果てて、歩けなくなって、その道行きの重荷になるようなら、見捨ててくれても構わない。
だから、お前は、一生、
俺のことを、許さなくていい――――。
作品名:罪深いわたしを許して 作家名:桜井透子