こどもの情景
彼女のくちびるが濡れていた。充血してふっくらとしたそこが笑みを象るのがかわいい。たった今まで自分のをくっつけていたのに、またすぐに触りたくなってしまう。舌で表面を探ったときに少し甘かったのは、たぶん沙都子に借りた歯磨き粉のせいだろう。確かイチゴ味の。
「え?」
「今、聞こえた」
彼女はそう言って頬を染めた。熟れたイチゴの紅い色。両手が心臓の辺りをきゅうと掴んでいる。制服の胸元に深い皺を刻む華奢な指──その下にあるかたちをつい思い描き、不埒な想像に喉が渇いた。
「な、なにが」
「ちゅっ、て」
おとがしたよ。
無邪気な表情を向けられ、俺はやましさを踵で踏み潰した。もちろん気付かれないように。彼女はと言えば、かぁいいかぁいい、それがとっておきの宝物であるかのように、自分の胸を押さえて笑っている。眼が青空を映していた。
昼休みの校庭。遠くに蝉と、遊ぶ級友たちの声。等間隔に水滴を落とす蛇口のそばで、洗われたばかりの弁当箱がふたつ、しまわれるのを待ってるけど、ふたりきりで向かい合った瞬間から俺達はその存在を多分すっかり忘れてる。
こんなふうに建物の裏で、たとえば重機の陰で、誰もいない教室で。俺達は人目を盗んで恋人の真似をする。手を繋ぎ、目配せし、キスをする。そこには秘密を分けあう快感と、ちょっとの罪悪感と、共犯者のスリルが混ざっている。キスは皮膚同士をくっつけるだけで、ちっとも上手ではないけれど、ただ精一杯で重ねた。
そう、たった今も。彼女はそこに変化を見取った。
「圭一くんが離れてくとき音がしたよ。ちゅって、聞こえたよ」
「そ、そうか」
全然わからなかった。俺はさっきも今も彼女のことしか感じてなくて、他は何にも見えてなかった。彼女の唇の柔らかさとか、髪の匂いとか、掴んだ腕の細さとかそんなのを、必死に追い掛けてたから。
「はじめてだね」
「……そうだな」
「ドキドキした」
「うん」
「大人のキスみたい、だね」
うれしそうに笑う彼女を抱きしめてしまいたくなる。
レナ、俺はレナをちゃんと楽しくさせてあげられてるか。俺はレナに夢中になって、今だってレナが何を笑ったのかもわからないのに。自分のことばかりで。
拙くて幼くて儚い、ままごとみたいな時間の積み重ねがレナを不安にさせてないか。俺はいつも気付かずに、調子にのって失敗する。自分の悪いところを自覚出来るようになっても、どうしたら克服できるかにはまだ胸を張って答えられない。
「上手になったの、かな」
「はは、だといいな……。ごめん、俺ぜんぜん無意識で」
「いいの」
抱きしめる、キスをする、それから、それから? どうしたら喜ぶだろう。
「もう一回、したいな」
「……できるかなあ」
「できるよ」
「下手だったらごめんな」
「ううん」
眼を閉じる、顔を寄せる。柔らかな体温。どうしようもなく鼓動が速まって、余裕は根こそぎ、いや、最初からそんなものありはしないんだ。
精一杯な、不器用な、ガキの恋愛ごっこだと笑われても。
「ばれちゃうかな。……かな」
「音がすると、なんかやらしいよな」
内緒のままごとはいつか大人のするのと同じになって、彼女をもっと上手に笑わせてやれるようになるといい。
そのときにも、変わらず彼女がうれしそうに笑うところを見たい。
「そう? レナは好きだよ」
「そっか」
「圭一くん……かぁいい」
「あ、こらそんな──」
いつか大人になるその時間。けれど、今はまだもう少しこの秘密の場所で、拙い逢瀬を重ねていよう。
濡れた弁当箱が乾くまでの間。