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神月みさか
神月みさか
novelistID. 12163
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疼痛

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 浅く長い切り傷がじくじくとした痛みを訴える。
 浅いとは言っても、血が滲むのではなく流れるだけの傷だ。それなりの深さはある。
 怪我らしい怪我など、帝人はここ何年もしたことがなかった。精々指先を切る程度の軽いものを数回した程度だ。

 慣れない疼痛に、涙が零れてくる。
 怪我をして泣いたことなど、帝人の記憶にはない。少なくともこの十年程はそんな無様を晒したことはなかった。
 痛いから、泣く。そんな当たり前ともいえることを、小学校に入る前という幼い頃から不名誉に感じていたのだ。

 帝人とて、さすがに子供の頃は、よく怪我をした。
 転んで膝を擦り剥くことなどしょっちゅうだった。
 擦り傷は表面積が広い分痛点に触れやすく、怪我の程度に比べて痛みが大きい。
 しかし泣くようなことはついぞなかった。その程度で泣ける友人達が帝人には理解できなかった。


 それなのに、今。
 流れる血と一緒に、涙まで流れてくる。
 ハンカチで傷口を押さえるが、すぐに真っ赤に染まってしまう。
 それが怖くて、哀しくて、どうしたらいいのかわからなくなってくる。こんな怪我はしたことがなかった。
 ハンカチを押さえる手が震える。このまま傷が塞がらなかったら、怪我が治らなかったらどうしようと考えると心が震える。


 そんな帝人に、穏やかな声が掛けられた。
 落ち着かせようとするような、宥めるような、努めて平静を心掛けている声だ。

「おい、泣くな。竜ヶ峰。大した怪我じゃねえよ。血だってすぐに止まる」
「――すみません……」

 涙声を帝人は情けなく思った。考えてみればひと前で泣くこと自体、記憶になかった。
 大人である静雄は、目の前で泣いている子供に困惑しているようだった。そう、これではまるで子供だ。泣き止まなければと思えば思うだけ涙が止まらなくなってくる。
 静雄の表情はサングラスを外している所為でよくわかる。明らかに困っている。困らせてしまっている。それがわかっているのに泣き止むことができないのは、痛みが大きすぎる所為だった。

「大丈夫だって。見た目は派手だし血も出ちゃいるが、浅い傷だ。すぐに治るから」
「――すみま、せん……」
「だから、泣くな。竜ヶ峰」
「――ごめ、なさ……」

 ついにしゃくり上げだした子供に、静雄はどうしたらいいのかわからないように金色の前髪を掻き上げた。

 多分、帝人の涙が止まらないのは、痛みの所為だけではないのだろう。傷や流血にショックを受けたのも理由のひとつだろう。
 けれども、やはり痛みが大きかった。怪我に慣れている静雄に大丈夫だと言われても、泣き止むことができないくらい、痛かった。

「静雄さ……痛い、んです。痛くて……涙、が、止まらな……」
「竜ヶ峰……」

 静雄は少しだけ躊躇った後、帝人に手を伸ばしてそっと頭を撫でた。
 優しい手だった。
 優しくて、壊れ物を扱うような繊細な撫で方だった。

「竜ヶ峰、んなに痛がるな」
「――でもっ……」
「怪我してんのは、俺だ」
「――だからっ……!」

 静雄の左袖は切り裂かれて真っ赤に染まっている。捲り上げた白い腕からはまだ血が流れていて、帝人が押さえているハンカチが段々重くなってきている気さえする。

 痛くて、痛くて、どうしたらいいのかわからなかった。

「だから、痛いんですっ! 自分の怪我ならっ、泣いたり、なんて……っ!」

 帝人には、自分の怪我の痛みで泣いた記憶などなかった。
 覚えていられる年齢になってからはそんな無様を晒したことはなかった。

 けれども、目の前のひとの傷には、耐えることができない。
 あまりの痛みに涙が溢れ、止まらなくなる。

「――悪かった」

 静雄は子供を宥めるように、帝人の頭を撫で続けた。
 帝人は申し訳なくて、嬉しくて、情けなくて、身の置き所がない思いに身を細めた。

「そうだな。俺が悪かった」
「――静雄さ、は、なにも、悪くな――」
「自分の怪我なんざ気にもならねぇが、もしも竜ヶ峰がこんな怪我を負ったら――想像するだけでキレそうになる」

 静雄は一瞬だけ眉間に深い皺を寄せ、すぐに宥めるような表情に戻ると本当に申し訳なさそうな声で囁いた。

「痛ェよな。俺も、竜ヶ峰が怪我したら、痛ェ。だから――悪かった。痛ェ思いさせて、悪かった」
「――っ、だったらっ!」

 益々涙が溢れ出して、もう顔を上げていることもできずに顔を伏せる。

「でしたら、もうこんな怪我しないで下さい! 僕に痛い思いをさせないで下さい!」
「ああ、気をつける」
「本当、ですよっ?」
「ああ。悪かった」
「――本当、ですよ……?」
「ああ。気をつける。だから――」

 静雄は撫でていた手でそっと帝人の頭を引き寄せると、広い胸に抱き寄せながら、囁いた。

「だから、泣き止んでくれ。お前が泣いてると、こんな怪我なんかより、ずっと痛ェんだ――」
「―――」

 こくこくと頷くだけで言葉を返すことさえできない子供を、静雄はずっと抱き締めていた。
 愛しい子供の涙が止まるまで、ずっと。
作品名:疼痛 作家名:神月みさか