ハロー・グッバイ・ハロー・エンディング
会いたいな。真夜中、ちいさな窓から薄暗いどんよりとした空を眺めながら思う。この街では星のひかりは電灯に勝てない。そんなことにがっかりする。俺の家の冷蔵庫には何も入ってはいない。からっぽだ。からっぽ。俺の体もからっぽだ。あいつのからだはあったかかった。あいつの家の冷蔵庫にはいつもたくさんの食材がところせましと置いてあって、あいつが腕をふるうとあっというまにそれらは美味そうな食事に姿を変えてしまった。「中華料理屋でバイトしてたことがあんだ」といって照れ臭そうに、でもすこしだけ誇らしげに笑ったあいつのその料理の腕は、駅前にあるしなびた繁華街の角にあるやっぱりしなびた中華料理屋の大将直伝のものらしい。俺はそこで一度だけメシを食ったことがある。たしか、皿うどんと、餃子。だけどあのときの一皿600円の皿うどんより、からりと揚げられた餃子より、今目の前であいつの作るチャーハンのがよほど美味く思えた。そんなこともいまじゃ昔話だ。今俺はここで、汚れた部屋にひとりぽっちで、薄暗い空を眺めている。
「九州へ行くんだ」そうあいつが俺たちに告げたのは、俺たちが西浦を卒業する、その前日だった。「ええ?!」「聞いてねえよ!!」と騒ぐ野球部のやつらを眺めながら、俺も、「聞いてねえよ」と胸の中でつぶやいた。いま野球部のやつらの向こうで手を頭にやってなさけない顔で笑っているあいつは昨日、そのままのなさけなさで俺を家に迎え入れ、そのままの笑い顔で「たはは」なんていいながら俺を抱いた。そしてそのあと俺にキンと冷えた麦茶を渡してチャーハンを食わせた。いつもどおり、まったくいつもどおりだった。「九州に行く」なんてそんな。聞いてない。聞いてない。俺は聞いてない。
帰り道、「聞いてないよな」「浜田の奴、いきなりすぎんだよなー」などとしゃべりあう田島と三橋の声にうなずきながら、俺はそのじつ何も聞こえていなかった。そうだ聞いてない。早く浜田に会いたい。行かなきゃ。行かないと、あいつのあのちいさなアパートに。
アパートに着くと、浜田はすでにアパートの前に出ていた。見覚えのある黒い猫のついた帽子を被ったおにーさんたちと何事かしゃべっている。そのとなりにはでかい、これまた見覚えのあるトラックが停まっていた。「泉、」ふいにこちらを振り返った浜田が俺の名前を呼ぶ。いつもどおりのあたたかな温度だった。浜田はいつでも生ぬるくあたたかい。そうしてゆるゆると俺を包んでゆくんだ。こいつといるとなにもかもがうまくいかない、いまだってほら、俺の意思とは関係なくなにかあたたかいものが俺の頬を伝ってゆく。喉から引き攣った声とは呼べない音が出る。「いずみ、」浜田の声が俺を呼ぶ。「ごめんな。」聞いてない、そういうつもりだった喉からは声なんて出ない、ただ嗚咽だけが洩れる。あやまんなよ。何をあやまってんだよ。決めたんだろ。もう決めちまったことなんだろ。昨日俺の背中を抱き締めて、それでも俺にはひとことだって問わなかった。いわなかった。そういうことなんだろ。ならあやまんじゃねえよ。ただ、俺は、俺がいいたいのは、そういうのじゃなくて、俺が泣いてんのはそういうのではなくて、ただ、ただ。
「なあ泉、」浜田がまた俺の名を呼ぶ。その瞳がいつになく真摯だったので俺は涙で曇った視界を振り払うように必死にそのきんいろの頭の下にあるまあるい目を見詰めた。「泉、あのさ」瞬間、息を止めて、浜田がいう。「あの、俺といっしょにさ、その、九州、行かねえ?」一世一代の告白をしたような緊張したおももちで、浜田は俺のかおを見る。そんな浜田を見ていたらいままでのぜんぶが俺の頭をよぎった。まだこいつとこんなふうになるなんて思ってもなかった時代の、マウンドに立つこいつの大きな背中。支えてやりたいと思ったその笑顔。思うより強いこいつに、願うより弱いこいつに、俺がしてやれたこと、してやれなかったこと。その他もろもろの、してやりたかったこと、いっしょに、したかったこと。俺の顔を所在無げに、でもつよく見詰めている浜田の顔を見返して、涙を拭って笑う。「ばァか」
「そんなの、むりに決まってんだろ」
次の日の朝、浜田はここを発った。前の夜、「もう全部引越し屋さんに頼んで持ってってもらっちゃったからさ」と笑う浜田を初めて俺の家に連れて行って、初めて俺は自分でチャーハンを作った。初めて作ったそれは酷い出来だったけれど、浜田は笑って「うまい」といった。うそつけ、と毒づこうとしたけど、こげこげのチャーハンをうまいうまいと嬉しそうにほおばる浜田を見ていたら急にまた泣きそうになって、言葉を飲み込みうつむいて笑った。見送りは家の前でした。駅までついていったりしたらきっと俺はここへは帰って来れない。「じゃあな」と笑って手を振った浜田に「またな」といったけれど、こいつがここへ戻って来ないことは俺だってしっていた。きっともう一生、俺が浜田に会うことはない。もういちどひらりと手を振って、いつものように、浜田はふらりと歩いて行った。
それから俺は実家を出て、浜田が住んでいたぼろいアパートに引っ越した。201号室。あのときのあたたかさなんかどこにもない、殺風景な部屋だった。俺の荷物が移り住んで、すこしはうるさくなってきたが、あのあたたかさはやっぱりどこにもなかった。こうして俺が未練たらたらに浜田の住んだ家に住んでみたところで、どうしたって浜田はここへは戻って来ない。どんどん浜田が薄くなる。この街から、生活から、記憶から。そうしてどんどん消えていくんだ。あの日の背中の熱さだって、麦茶の冷たさだって、あの冷蔵庫とチャーハンだって。俺にとって浜田がどんどん無意味になって、思い出になっていく。こうして空を見上げてあいつを思うことだって少なくなるんだろう。それはあいつだっておなじことだ。あいつにとっても俺が無意味に思い出になっていく。だけどせめていまだけは、このどんよりとした空を見上げてあいつに会いたいと願う。あのきんいろをこの瞳にうつしたいと、あいつの作るチャーハンを食いたいと思う。遠い空の向こう、あいつもそうだといい、そう思う。
作品名:ハロー・グッバイ・ハロー・エンディング 作家名:坂下から