美しい教室
俯いた少年の脱色も染色もされていないさらりとした黒髪が時折風に揺れて、日に焼けていない旋毛がちらりと覗いている。
夕日に色づいた教室、ペンを走らせる音。華奢な手が几帳面な文字を綴り、今日という1日を簡潔に纏め上げていく。
きれいだ、と正臣は心の中でそっと呟く。
この行為が無ければ今日は何時までも終わらないのかもしれないと思えてしまう程に神聖なものにみえた。
ああ、この一瞬を切り取りたい。この友人とそれをとりまく穏やかな日常を、正臣が苦労して抜け出した闇とは何ら関係のない暖かな光を、永遠に失わぬよう保存しておけたならば。ずっと変わらずそこにあるのだと安心する事ができるなら。今現在の、只の高校生である正臣が愛しているもの全て、標本のようにガラスケースの中にしまい込んでしまいたい。
これは愛だ、そうに違いない。
正臣は思う。沙樹に向けるものとはまた違った愛なのだ。友愛と恋愛の違いではなく、もっと高尚な違いだ。両方を知り得た自分はなんて素晴らしいのだろう。
ただ一つ残念なことは、沙紀を抱きしめる腕では帝人は抱きしめられないという事だった。
正臣は結局、あの忌々しい男が言うとおり、沙紀から逃れることは出来ない。沙紀という過去を、振り切ることはできないのだ。勿論共に歩む未来も捨てることもできなかった。
ならば仕方が無い、と思う。人間あまり欲張りなことをしてはいけないのだと諦めて、正臣はここの所ずっと、どうすれば大切な帝人をガラスケースに入れることができるかばかりを考えている。
「何、正臣。そんなに日誌書きたいんだったら言ってくれれば良いのに」
「そんなこと一言もいってない!一人寂しく家路につく帝人君が泣いちゃわないようにわざわざこうやってまってあげてる親友にむかってその言い草はなんだ!」
「泣かないし頼んでない」
いつも騒がしい彼にしては珍しく黙って帝人を見つめ続けていた所為か、可愛らしい瞳がこちらを見上げて憎まれ口を叩いた。日誌を書く手が止まってしまったことは寂しかったが、構って貰った事に喜びを隠せないのも事実。友人の痛烈な言葉に非難するように上げた声が上ずってしまっているのも仕方の無いことなのだ。
帝人はわざとらしいため息をひとつ溢して、また日誌に向かい直るために僅かに俯いた。口ではああいっているが、本当は正臣が待ってくれていることが嬉しいので自然と文字を書く手は忙しくなる。ペンを走らせる音が再開し、話し声が止んだ教室の静寂をより際立たせた。
やっぱり、きれいだ。正臣は心の中で呟いた。
僅かに揺れる形の良い後頭部、そのさらに後ろに控える項の透けるような白さ、夕日で僅かに色づく青い制服。この美しさを残すには写真じゃ駄目なのだ。もっと確かなもので無いといけない。
「・・・なあ帝人、狭いとこは嫌いか?」
「はあ?・・・まあ、嫌いでは無いよ。好きでもないけど」
「なら良かった。なるべく広いのにしてやるからな」
繊細な金の細工が施してあるものが良い。きらきらと輝くガラスケースの中、穏やかな笑みを浮かべ教室に佇む大事な少年の標本。そして大切な少女を抱きしめながらガラスケースの外からそれを見つめる自分を想像して、あまりの美しさに、幸福に溜め息を零す。
はたしてこれ以上の、いやそれ以外の幸せがこの世にあるのだろうか?いや、答えなど初めから決まっている。
「大丈夫、杏里も呼んでやろうな」
透明な永遠の楽園の中に。