子羊が一匹
家主がいるか不安になりつつ、呼び鈴を押す。扉の向こうからすぐに返ってきた言葉が家主の在宅を教え、静雄は安堵した。
「はい。どちら様ですか?」
「あー、竜ヶ峰か?その、俺だけどよ。」
「俺?…あっ、平和島さんですか!」
名を名乗るというのもなんだか気恥ずかしく言葉を濁せば、覗き穴から顔が見えたのか竜ヶ峰が扉を開けてくれる。
「平和島さん、どうかしましたか?」
「ちょっと、その、な。」
「びっくりしちゃいました。よく知ってましたね、僕の家。」
「ああ、セルティから聞いた。いきなり来て悪いな。」
「いえ、お気になさらず。少し待っていてくださいね。部屋片付けますから。」
「ああ。」
事前に連絡もなく突然の訪問、それも自宅を教えていない相手だ。不愉快に思ってもおかしくないが、竜ヶ峰は驚きを露わにしただけで快く静雄を迎え入れた。その無防備さに池袋のような街に住んでいて大丈夫なのかと不安になるが、今の静雄にとっては帝人のそういった性質が有り難かった。
「どうぞ、狭いところですけど。」
「…邪魔する。」
部屋に入ると室内の中心に置かれた卓袱台に座るように勧められ、サングラスの下でちらりと周囲を見回した。竜ヶ峰の家は生活するのに最低限必要なものしか備えていないようで、広くない室内でありながら殺風景な印象を静雄に与える。腰を下ろすが、何だか妙に落ち着かなかった。
「…僕の家はお悩み相談室でも駆け込み寺でも懺悔室でもないんだけどな。」
「なにか言ったか?」
「いいえ。それより、お茶菓子とかなくてすみません。」
申し訳なさそうに竜ヶ峰は可愛らしい猫がプリントされたプラスチックのコップを取り出し、そこに急須から茶を注いだ。どうぞと差し出されたそれを、静雄は凝視する。
「あっ、すみません!湯呑みより頑丈でいいかと思ったんですけど、余計なお世話でしたか?」
「いや、かまわねえよ。むしろ気い遣わせちまったな。」
いれ直して来ますと竜ヶ峰が立ち上がろうとするのを、静雄は止める。此方から邪魔しにきた身としては、他人様の家で物を壊して気まずい思いはしたくない。竜ヶ峰の気遣いは、正直とても助かった。
そういう想いを込めて首を横に振ると、竜ヶ峰は安心したように再び腰を落ち着けた。
「それで、用件をお聞きしていいですか?」
「あ、ああ。…そのよう、あの、だな。」
「はい。」
はっきりしないことは嫌いであるのに、どうにも言葉が上手く出て来ない。それに苛立ちそうになったが、正面で穏やかに微笑み静雄の言葉を待つ竜ヶ峰の姿に、暴れる前に心の荒れが収まる。
静雄は何度か躊躇いながらも、改めて口を開いた。
「その、俺に後輩が出来たんだよ。」
「もしかして、金髪の綺麗な人ですか?」
「綺麗っつうか、まあ、金髪ではあるな。」
「最近、よく平和島さんたちとその人を見かけるので仕事仲間の方かと思ってたんですけど、やっぱりそうだったんですね。」
「ああ、多分それだ。」
「それで、その後輩の人がどうかしましたか?」
不思議そうに問う竜ヶ峰に、静雄は口ごもりつつも話を聞いてもらっているのだからと、言葉を続ける。
「そいつがまだ入ってきたばかりだから、トムさんが一緒に行動しつつ仕事についていろいろ教えてんだよ。」
「新人さんですから、そうでしょうね。」
「そんなわけだから、トムさんと組んでる俺もあわせて、この頃は三人で行動する時間がほとんどでよ。」
「…なんだ、リア充か。」
「竜ヶ峰?」
「いえ、こっちの話です。それで?」
「それで、っつうか。それが、っつうかな。いや、うん。」
「はあ。」
また言葉に詰まり出す静雄に、竜ヶ峰は曖昧に笑いかけゆっくりで構わないですよと言う。静雄は心底情けない気分になり、渇いた口内に茶を流し込んだ。コップを置いたところで、竜ヶ峰が何か思い付いたように口を開く。
「ああ、もしかして、寂しいんですか?」
瞬間、静雄は力のコントロールを失った。気付けばプラスチックのコップは破片となり中味の茶をぶちまけていた。
「す、すまねえ!」
「いえ、大丈夫ですよ。プラスチックにして良かったです、平和島さんが怪我しなくて。それよりこちらこそ、すみません。気分を害しましたか?」
「……。」
竜ヶ峰は困ったように眉を下げながらも、静雄を気遣い微笑みを浮かべていた。静雄は何も言えなくなる。先程の動揺が怒りからではないことを、誰よりも静雄自身がよくわかっていたからだ。黙り込む静雄に、砕けたコップや濡れた床を片付けながら、竜ヶ峰は穏やかな語り口で話し始めた。
「僕も二年に進級して、後輩が出来たんですよ。」
「…おう。」
「ちょっと性格はアレな感じの子なんですけどね、後輩ってやっぱり可愛いじゃないですか。」
「……。」
「でも、その子が僕の友達と仲良くしてると、寂しいような気持ちになるんですよね。友達に懐く後輩に対しても、後輩と仲良くしてる友達に対しても。」
恥ずかしいから内緒ですよと、竜ヶ峰は悪戯っぽく人差し指を唇にあてた。静雄は、最初から全部竜ヶ峰にはお見通しだったのではないかという気分になってくる。
「…別に、ガキみてえに拗ねてるわけじゃねえんだよ。」
「はい。」
「ただ、後輩が出来るくらい仕事が続いたのも、俺を上手く扱ってくれる上司がいるのも、初めてなんだ。」
「頼られたいし、役に立ちたいですよね。」
無言で頷けば、柔らかな眼差しが静雄を包む。
「平和島さんは、もっと自惚れていいと思いますよ。」
「あ?」
「あなたが思っているより、あなたは愛されているって話です。寂しいなら、二人の間に割って入っちゃえばいいんですよ。それがゆるされるくらい、あなたは想われてますから。」
暖かみのある静かな声が、身体に染み入るように響く。竜ヶ峰の言葉には根拠などないのに、奇妙な説得力があった。
「…ありがとな。なんか、くだらない話につき合わせちまったけど。」
「いいえ。平和島さんとお話出来て、僕は嬉しいですから。」
そう口にする竜ヶ峰に、嘘はない。野生の勘が鋭く働く静雄には、わかった。
セルティに言われた通り、竜ヶ峰に相談を持ち掛けて正解だったのだろう。竜ヶ峰は臨也なんかとつるんでいるのが信じられないくらい、いい奴だった。
「…今度は事前に連絡するし、茶菓子くらい持ってくる。」
「はい?」
「だから、…メアド教えろ。」
照れ隠しに憮然とした表情になりながら携帯を差し出す静雄を、竜ヶ峰はぽかんと眼を開き見つめた。しかしすぐに、微笑みが戻ってくる。
「僕でよければ、喜んで。」
気恥ずかしさからそっぽを向きつつ、赤外線を交わす。向かいからくすりと笑い声が聞こえてくるが、腹が立つことはない。どころか、背中が妙にむずむずして胸のあたりがくすぐったかった。