青空に飛び行く
一歩目でその只中へ出て行くのを断念して、大人しく庇の下の椅子に腰を下ろした。
絵に描いたように真っ青な海と空との境を目指して、一隻の小さなヨットが船出しようとしているのが見える。一人乗りの、本当に小さなヨットだ。舵手が自らばしゃばしゃ水を蹴立てて砂浜から波打ち際へと押しやり、頃合を見て飛び乗って出立する、玩具のような船だ。
だが、あんなに些細なヨットでも帆が風をはらむと海鳥が舞うように水面を滑っていくことを、男はとうに知っている。ここに滞在するようになってから、相方が毎日のようにああやって海に出ていくのを見送っているから当然だ。
お前はやらないの、と何度か誘われたが、岸から見ているのが性にあっているように思えて断っていた。最初はたどたどしかったものの、徐々に飛ぶようにヨットを操るようになった彼を、眩いモノを見る目で追っている方が自分らしい気がしていた。
青い青い景色の彼方に、豆粒よりも小さくなったヨットの帆を見詰めるのが辛くなって、視線を手元の日陰へと下ろした。残像と共に、眼球の奥がじんと痺れるような感覚が残っている。
サイドテーブルに置きっ放しの本を何気なく手に取って、読むともなしにページを捲った。
今だちらつく視界の中、活字の内容はちっとも頭に入ってこなかったが、不意にヨット遊びから帰ってきた彼が羽根が生えた気分だと言っていたのを思い出した。
上手く風を捕らえられると、まるで舟と一体になったように感じるのだと言っていた。そのまま、魚か鳥のように海の真ん中を何処までも進んでいけるような気になる、と。
その話を聞いたとき、自分はどう返事をしていただろうか。
あまりはっきりと覚えていないことに少し驚きながら、それは気持ちが良さそうだと笑ったのではないかと考えた。そうして、腹の底で蠢いた感情を面に出さないように注意を払ったのだろう。
南の熱く乾いた風が、前髪を弄っていく。
光を放つような青い海と白い砂浜。それを拒む人工の影の中に止まりながら、しっとりとニスを塗られたテーブルの上に夕べ浜辺で拾ったままにしていた貝殻やボタンや、色とりどりの硝子の欠片を並べてみた。
大切なものは全て波間に置いてきた抜け殻のようなそれらは美しく、空虚で、寂しいモノのように思われた。
そして、自分には海面を駆けるヨットよりも、こういうものが似合いだと思えた。
波音は一定で、乱れる様子など微塵もなく、船影は未だ遥か遠い。
彼は戻ってくるだろうか。
ふと考えてみて、小さく笑んだ。彼は彼の行きたいところへと飛んで行くだろう。
それでいい。
→ 青空に飛び行く/萩原朔太郎 ttp://d.hatena.ne.jp/gravity2/20061201/awozora