はじめてをちょうだい
自炊をあまりすることはないが、食材が余った時は話がべつだ。
刹那が自ら買うのはもっぱら、林檎やファーストフードの調理のいらない類のものが多い。
そんな刹那の冷蔵庫にそれ以外の物が入るのはたいてい、お節介な隣人や自称兄貴分が勝手に買ってきて詰め込んだ結果だ。
鶏肉と人参、そしてじゃがいも。野菜室に並んだ、購入した覚えのないそれらに刹那は眉をひそめた。
置いて行ったのは、先日昼食を作りに来た隣人だろう。たまにはチキンカレーでもどうかと台所を使い、鍋に大量に作って帰って行った。一人暮らしの刹那にはいささか厳しい量のそれらを、あらゆる手段を使ってようやく片付けたのが今朝のことだ。
このまま置いておくのは、戦争で食料のありがたみをよく知っている刹那にはゆるしがたい。なんとかして消化できないかと、野菜室を閉めて冷蔵室の扉を開けた。
「…… ああ」
真ん中に鎮座してあった物体に、刹那は目を瞬いた。
そういえばこんなものも、あったのだ。
キッチンから漂う匂いに、ロックオンは鼻をひくひくと動かした。
「なんだこの匂い……」
勝手知ったる刹那の家に、鍵を使い、中に入ったとたん鼻腔をくすぐったのはロックオンの知らない香りだ。
刹那は基本的に自炊をしない。たまに料理があるといえば、刹那曰く『お節介』の、お隣さんが作るという単品ばかりで刹那が作る様子を見たことがない。
二日前にロックオンがご相伴に預かったカレーすら、刹那に「隣の奴が作りすぎたんだが、手伝ってくれないか」と頼まれたものだ。美味くはあったが、刹那の手作りかと期待した己をすこし呪った。
今回もそのパターンかとキッチンに顔を出す。だが予想は外れ、鍋の前に立っている刹那に目を丸くした。
「刹那?」
「…… ロックオンか」
刹那がこちらを向いて首を傾げた。許可なしに上がりこんでくることについてはもうなにも言及しない。
「珍しいな、夕飯でも作るのか?」
「そんなところだ」
「それカレーが入ってた鍋だろ?あれは食い終わったんだな」
「ようやくな。だが冷蔵庫にまだ食材が入っていたんだ」
「へえ。……これ、なんだ?」
鍋を覗き込んだロックオンは見たこともない料理に驚いた。鍋の中には濁った薄茶色の液体がたっぷりと、その中からぴょこぴょこ頭を覗かせるちいさく切り揃えられたじゃがいもや人参など。およそ名前の見当もつかない。
「これは、味噌汁だ」
「みそしる?」
「日本の伝統料理らしいな。沙慈・クロスロードがレシピを書いてそこの冷蔵庫に貼りつけていったからそのとおりに作ってみたまでだ」
「へえー。美味いのか?」
「どうだろうな。沙慈は白米と一緒に食べると美味しい、と主張していたが」
「お、この白いのはなんだ?」
「豆腐だ」
「とーふ?」
「説明するのも面倒だ。端末で調べろ」
「冷てェ!!」
「やかましい。米、炊いてあるからお前も食うなら用意しろ」
異国の料理に触れる機会を逃す手はない。炊飯器をぱかりと開けてほかほかの米を茶碗によそう。刹那が味噌汁の火を止め、しばし硬直して鍋を見つめた。
「どうした?」
声をかければ、珍しく困ったように眉を寄せた刹那が、ああ、とちいさく声を漏らす。
「これでいいか」
勢い良く食器棚を開け、コップを取り出し二人分を無造作に注ぐ。
なにか違和感があるような気がしたが、ロックオンは正しい味噌汁の飲み方を知らない。刹那がそれでいいと言うならばいいのだろう。沙慈・クロスロードがこの場にいない以上、味噌汁はお椀で頂くものですと主張する純日本人が存在しないのだ。
家具の少ない刹那のマンションにロックオンが持ち込んだテレビのスイッチを入れる。バラエティが流れ、テレビの中から複数の笑い声が飛び出した。
これでいいか、と問うと刹那が頷く。特に見たいわけでもない。刹那には、きっとどうでもいいのだ。
どこか遠い世界のようなその笑い声はロックオンと刹那の間に入ることもできず、天井にぶつかって床に落ちた。
刹那もロックオンも、無言でほかほかと湯気を放つ味噌汁をコップから吸い上げる。
「しょっぱいな」
「そういうものだ」
汁の間から豆腐がロックオンの歯を割って滑り込んできた。噛み応えのないそれはロックオンにとってはじめての触感で口の中で転がす以外なにもできない。
啜るとずずっと音がする。舌を刺激するしょっぱさに一瞬だけ戸惑うが、すぐに美味しいものだと気づいて一気に飲み干した。
「具だけ残っちまった」
「なにをしているんだ」
「しょっぱいなあ。けど、美味いな」
「そうだな」
コップを傾けた刹那が目を伏せる様をじっと見つめる。
長めの睫毛が頬に影をつくった。
半円を描くそれがとてもかたちの整ったうつくしいものだと気づいた時と同じような感覚に陥る。
知っているようで知らないものがこの世にはたくさんあるのだ。
静止したロックオンの眼差しに刹那がふと瞼をもちあげた。
どうした、と唇が問いかける。
耳鳴りがしたような気がした。
いますぐにキスがしたい。
きっとそれは、いままでに刹那と味わったどのキスよりもしょっぱいに違いないけれど。
それはきっと、ロックオンが知らない味だから。
「…… 刹那、これまた作ってくれよ」
「構わないが」
「もっともっと、いろんな料理作ってくれよ。おれのために」
「それはお断りだな」
そっけない一言にロックオンは笑う。
近づけたコップから、吐息に煽られて湯気が零れた。
―――― たくさんのはじめてがほしいな、刹那。
そんな女々しい言葉を言えないまま。
ブラウン管の向こうの誰かが大声を上げたのを聴覚のはじっこで聞いた。
作品名:はじめてをちょうだい 作家名:由基