風の日
最初は、何をその程度のことで、と笑い飛ばした。
次に、どうしたんだお前らしくない、と訝った。
最後に、知らされたその本当の理由に彼は、
――彼は。
直線鬼、と呼ばれた男の顔を、福富は正面から見据えてこう言った。
「レース中以外で、その顔を見るのははじめてだな」
「寿一」
左頬に巨大なガーゼを貼り付けて、不自由そうに顔を歪める福富を新開はただ睨みつけていた。強張ったその表情は苦笑のようにも、痛みを堪えているようにも受け取れる。
実際、痛むのに違いなかった。箱根の山道で、インターハイのトップを争う走りの最中に落車したのだ。骨折していないのは幸いだったが、派手に擦り剥いた手足や背中の傷はまだ癒えるどころではないだろう。
……それに何より。
「その顔だと、もう耳に入ったのか」
「……」
「誰から、とは訊かん」
「あァ。俺も言わない」
ぱり、ぱり、と、仔ウサギが青い葉を齧る音がする。
飼育小屋の中にはもう何羽かの先住ウサギがいて、世界を小さなダンボールで仕切られたこのウサギも、もう少し育ったら彼らと同じように生きることになるだろう。ただひたすら自分の食欲を満たすので夢中になっている、このか弱い生き物の前で対峙するのは二回目だった。
ただ、と新開は思う。
ただ、あの時とはまるで立場が逆転しちまったなァ、寿一。
「否定しないのか?」
「しない」
「弁明は」
「何も」
「寿一」
「結果は結果だ。過ぎてしまったことだ。もう、……変わらない」
「……そっか」
ちらりと仰いだ空は青かった。命の抜け殻に触れた日と、インハイを辞退した日と、インハイ当日と、まるで同じ色をしている。最近はこんな色の空ばかりを覚えている気が、新開はした。深く吐き出す息が、ひどく苦い。
「それじゃ、一応訊くよ。左と右、どっちがいい?」
「……両頬にこれを貼るのは勘弁だな。飯も食い辛そうだ」
「そうか」
強く握った、慣れない拳は爪が掌に食い込んでやけに痛かった。
鈍い打撃音、指の骨が折れたかと思うような衝撃、ぐらりと傾ぐ福富の上体。それら全てがスローモーションの世界に見えて、新開は奥歯を噛み締める。ガシャン、と音を立てて大柄な体躯が飼育小屋の金網にぶつかる。中のウサギたちを驚かせてしまったかな、薄く、思った。
「……どうして」
手加減など、一切せずに殴り飛ばした。そうでなければ新開も、福富も納得などできないだろうから。
大きく肩を上下させ、酸素を肺へと送り込む。
それは慣れない動きに体がついていっていないから、ではなく。
「なんで。……って、問い詰めたいところだけど」
「……」
平静を装っても、震える声は隠せなかった。同年代のうちでは大人びた雰囲気を纏う新開だが、今は普段の飄々とした態度の面影すらない。何かを堪えて眉間に皺を刻む鬼神の顔に、福富もまた辛そうに眉を顰めた。
どうして、と新開は思う。競技としての自転車を続ける限り、人を殴るなんてこととは無縁で生きていくつもりだったし、中学から付き合いのある新開をこんな形で傷つけるなど、福富は断じて望まなかっただろう。なのにどうして、いまの自分たちはこんな。こんなことを。
「言わないんだろ、その様子じゃ」
「すまない」
新開の知る福富は、誇り高い男だ。時に傲慢とも映る自尊心が災いして、彼を良く思わない人間が一定数いることを知っている。そんな人間たちを寄せ付けないほど、彼の実力が確かなものであることも。
父のように兄のように高みを目指し、王者の風格を滲ませはじめている福富が卑怯な振る舞いを許せるような性格でないということだって新開は知っている。そう言えるだけの時間を、福富の傍らで過ごしてきた。
深く俯き、息を継ぎ、そして顔を上げる。
普段の顔、が出来ていればいいと、新開は望んだ。
「……っあーあ、手が痛いぜ全く。つか軽く捻挫してそうなんだけど、これ」
「――すまない」
「謝んな」
友人として、副主将として、ずっと傍らにいた。だから福富がどうして最も嫌うはずの行為に及んだのかはわからなくても、今の福富が罰を望んでいることだけはわかってしまう。許しを請いたいのではなく、誰からも赦されたくないのだと。一切の弁明も、弁明に繋がり兼ねない全ての発言さえ、今の福富にはきっとできない。自分の弱さに泣くことも。
ならば自分が殴るしか……殴ってやるしかないと、新開は、そう思ったのだ。
己を殴ることはできない。己を罰することはできない。――己を正しく許すことができないから。
父や兄の背を追いかけて、強者であることを己に架して、それでもたかが高校二年生にすぎない福富をインターハイに放り出して『走らない』ことを選んだ自分の、それがせめての償いにならないだろうかと。
「謝んなよ寿一、俺は許してやれないんだから」
「……すまない……」
「ハハ、何だソレ」
飼育小屋に背中を預けたままだった福富に手を伸ばす。その手を取ろうとして、福富は明らかに躊躇した。
新開は苦笑する。自分の顔を殴りつけた手の痛みを気にするなんて、お前やっぱりまだまだ甘いよ。
無理矢理掴んで引き上げた手は骨まで鈍く響くようで顔を顰めたけれど、離そうとは思わなかった。
「なあ寿一、忘れないと思うけど……忘れるなよ。『取り返しのつかないもの』って、こういうことだ」
返事はない。ただ、目を伏せた福富の顎が僅かに引かれて顔が少しだけ足元のダンボールを見る。
新開にはそれで充分だった。同一でなくとも、同じもの。それを抱えて、福富は走ることを辞めはしないだろう。
「来年は」
「新開?」
「いや……なんでもない」
俺が勝たせてやる、と口にすることはまだ出来なくて。
ただ、そういう風で在れたらいい、と新開は思う。この男のため、緑色のゼッケンを目指せたら。来年の自分が、そういうもので在れたなら――それは随分と、夢見がちな願いではあったけれども。
望まれた成績を残せなかった男が、妙に落ち込んで余所余所しい。
最初は、何をその程度のことで、と笑い飛ばした。
次に、どうしたんだお前らしくない、と訝った。
最後に、知らされたその理由に彼は、
――もう一度立ち上がって見せようか、と。
そんなことを――――思った。