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別れの足音

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思わず彼の指先に触れようとして、本田は慌てて自らの手をおさめた。彼に触れてはいけない。もう本田には、彼の白い手を見つめることしかできなくなってしまった。目の前にある、冷え切った指先、手入れのゆきとどいたまるい爪、指の山を描く細い稜線、手の甲から手首ほどにかけて浮き上がる青い色をした血の筋。そのすべてが、いとおしかったのだ。感触さえ、きっとあの日と変わらないのであろうに、本田にはもうそのことをたしかめる術がない。いつかカークランドの頬をなぞったはずの左手を、握りしめる。手を伸ばすまでもなく触れることのできる距離にいるのに、実際はもう、こんなにも遠いのだ。彼の温度も、輪郭のかたちも、髪の長さすら、昔と見違えはしないのに。何も、変わってやしないというのに。じんじんと痛む心の臓は、なかなかその痛みを引くことを知らない。
わずかに顔を上げて、本田は男の瞳を真っ直ぐにとらえた。アーサーさん。最後にそう名前を呼んで、あの日のように頬を撫でてさしあげたかった。気高く、美しく、まるで猛禽の類のように攻撃的で強烈な瞳は、相変わらず表情ひとつ崩さず本田を見つめている。国たるものの本来の表情をしている。本田はいったい、いつからカークランドのこんな表情を見ていなかったのだろう。見つめていたカークランドの口元が、ゆるやかに、小さくうごめく。本田はハッと我をとりもどした。とうとう言い渡される勧告。そして、言い渡さねばならない勧告。それが「国」である自分たちにとっては至善であり、また必然の採択であるならば、仕方のないことだというのに。
少し顔を俯ける。と、突然まぶたが重くなって、本田はゆるやかにまぶたをおとした。人としてありたかったわけではない。我が儘とわかっていながら、ただもう少し、本田菊として、彼にそれなりの愛を与えてやりたかったのだ。
……本田殿、本日この時を以って我々の同盟は、失効となる。
とうとう耳を打つ痛い声。今日を以って失効。本田は薄くまぶたをもちあげた。再びカークランドを見やる。表情を崩すどころか、男はまばたきさえ、しない。…今日の良き日にまあやりきれぬ宣告をなさるものだ。くっくと喉を鳴らしながら嫌味たらしく茶化してやると、ピクリとカークランドの眉が持ち上がった。微動だにしなかった彼の表情がはじめて変わる。本田はしてやったりのこころもちで、カークランドの瞳をまた真っ直ぐにとらえた。……では、同盟失効の手続きも終わった所で私めは御暇させて頂きましょうか。ごきげんよう、カークランド卿。
本田は口元に薄らと笑みを浮かべて、カークランドに踵を返した。後ろ手に手を掬ぶ。彼は今どんな表情で、どんな目をして、わたしの背を見送っているのだろう。茫然としているのだろうか、それともまだ表情のひとつさえ崩していないのだろうか。もしも泣いてしまっていたら、彼の頬を指で拭って差し上げたいと思ったが、それさえももう、私にはかなわぬことなのでしょう。本田は少し熱くなりはじめた目頭をもんで、そうして少し早足のうちに歩を進めた。こつこつと響く自らの革靴の音が、カークランドから遠ざくほどに、小さくなってゆく。みるみる弱くなる己の足音。情けないことだが自分はえらくカークランドに執心していたのだなあ、そういうことを考えて、本田は困ったように微笑んだ。……さようなら、アーサーさん。本田のくちびるはそう、声もなく空をなぞっただけだった。アーサー・カークランド、イングランド、イギリス、彼は今、どんな表情をして、何をおもっているのだろう。本田にはもう、知るよしもない。
作品名:別れの足音 作家名:高橋