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さざめきのなかに

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「波江、ねえ、慰めてよ」
波江は深く深く息を吐く。助手席に体を沈めた臨也は一向にこちらを見ない。只窓の外に目をやって、流れるネオンに身を任せている。

どこか遠くに行こうか、と言われたのは一時間前。仕事が一段落した深夜一時半、波江は黙って冷蔵庫からカフェインたっぷりの栄養ドリンクを取り出した。残業代出るのかしら?咽元まででかかったその言葉を鉄分とビタミンも配合された液体とともに流し込む。上着を着こんで、鞄から車のキーを取り出したとき、臨也が玄関から出て行く音がした。波江も続いて出て行く。鍵をかけるときに、何となく今日は長い夜になりそうだと思った。

飲みやすいアップル味、なんて嘘。口の粘膜に絡みつく栄養ドリンクの強烈な味に顔を歪めながら、車のエンジンをかける。こういうとき、臨也が運転することは無い。行き先を指定することも。波江ももう慣れたもので、黙ったままの雇い主に一瞥をくれると、駐車場から道路に車を出す。とりあえず首都高でも乗ろうかと思っていると、俯いたままの臨也がぽつりと呟いた。

「下が良い」

つまり一般道が良いということだろうか。いつに無く小さく弱弱しい、まるで迷子の子供のような声はラジオもついていなければ音楽もかかっていない静かな車内にやけにはっきりと存在した。波江は遠くへ行くときにはよほど渋滞でもしていない限り高速に乗ってしまう性質なので、面倒臭そうな顔をしたが反論せずにそのまま車を走らせる。

沈黙は苦手ではないが当ても無く車を走らせることは得意じゃない。カーナビと波江自身の直感で適当に道を選びながら、この間は何処まで行ったのか思い出そうとする。別にそれを思い出したとしてどうなるわけでもないのに、他にすることが無い。暇は嫌いだ。

「波江、ねえ」

幾分芯を持った声が響く。臨也はいつの間にか窓の外に顔を向けている。事務所を出発してから一時間しかたっていないので、そこにあるのはありふれた東京の夜景だ。何も目新しいものは無いだろうに、一向に目を離さない。別に景色を見ているわけではないのだろう。

「慰めてよ」

波江は溜まりきった息を大きく吐き出した。運転席と助手席の距離は近い。普段の二人よりも遥かに縮まっている距離に今のため息が聞こえないはずが無いのに、やはり臨也はこちらを向くことも無い。慰めてよ、とふざけもしなければ真剣でも、憔悴したわけでもない掴みどころの無い声で言ったきり黙ってしまった。
さてどうしようか、ここで思い切り頬でも引っ叩いてやれば諦めてくれるだろうか。それとも、一番近くの山にでも置き去りにしてやろうかしら。
そうだ、この前は山に行った。人っ子一人、車も一台も走っていない寂しい、暗いだけの道路を三十分ぐらい走っていると、突然臨也がいつものような口調で話し出したのだ。道路脇に立つ古ぼけた看板を嘲笑し、それから真顔になって一言、帰ろうよと言ってその日は終わった。後になってその日のことを話題にすることは二人とも無かったし、その時がこの奇妙なドライブの初めてというわけでもなかったので特に深く考えることもせず、結局何に満足したのか今も分からないままだ。更にその前はどこだったかも思い出そうとして、果たして今日は何度目なのか不思議に思った。頻繁にあるような気もするし、それにしては何の解決策も講じない自分も奇妙だ。深夜に上司と強制ドライブ。楽しいものでは決して無いし、会話の無い男女が郊外に向かって車を走らせているなんて光景、傍から見たら心中じゃないか。

「貴方は、死にたいの?」
「どうしてそう思うの」
「否定しないのね」
「肯定もしていないけどね」

二人はいつの間にかまっすぐ前を見つめていた。波江はハンドルの先を、どの道を選ぶのか考えながらひたすらに見つめて、臨也はこちらに向かっては過ぎ去っていく街頭をぼんやりと眺めていた。死にたいわけではないことぐらい、波江だって分かっている。それでも―――それでも。臨也はよく死について語りたがるのだ。

「帰るわよ、眠いの。居眠り運転なんて理由で死にたくは無いでしょう」
「じゃあどんな理由なら俺は納得して死ぬと思う?」
「興味ないわ」
「そうだろうね」

君は、弟以外に興味なんて無いんだもんね―――。臨也は少し笑って、帰る前にコンビに寄ろうよ、と言った。波江はそれに珍しく素直に賛成して、事務所を出てから一時間と少しの間、ずっと相手にされていなかったカーナビに事務所の住所を入力した。無機質な声が目的地までの距離と時間を告げる。機械に勧められるままに高速を使えば、到着まで三十分とかからないようだった。

「臨也」
「何?」

波江は夜の首都高が好きだ。渋滞しているのは嫌だが、汚らしく輝くネオンを眼下にアクセルを踏むのは気持ちがいい。都内とはいえ新宿からだいぶ遠く離れた場所だ、あまり明るくは無かったが、それでも一般道より遥かに力強くアクセルを踏み込めることに満足した。だから少し気分が良くなって、視線はそのままで臨也に声をかける。

「貴方が如何あがいても何処へ行っても何をしても、何も変わらないのよ。貴方の名前も、変な趣味も。良くも悪くも、ね。だから―――、諦めなさい」

子供がそのまま大きくなってしまったのだと思う。時折見せる迷子の子供のような、それでいてやけに達観した物言いだとか。子供が広すぎる大人の体に閉じ込められて、上手に操縦できずに暴れまわっているのかもしれない。子供なのだから諦めてじっとしていればいいのに、飛んだり跳ねたり暴れまわるものだから、こうして疲れてしまうのだ。大人の体は彼が思っているより広くは無いのに。きっと、あちらこちらに子供の体をぶつけてしまって仕方がない。

「まさか波江、俺のこと」

慰めてるの?
臨也が驚いたような、馬鹿にするような―――有体に言えば、いつもの通り彼らしい声で言ったので、波江もいつもの彼女らしく鼻で笑った。あら寝ぼけてるの?言い返せば、笑い声が上がった。いいねえ波江は、可愛げなくって、凄く面白い。徹夜明けなのにね、ちっとも崩れないメイクとか、変わらない口調に意外と荒い運転とか!
加速していく臨也のお喋りに、波江はここしばらく徹夜続きだったということをここに来て気がついた。
そういえば、一昨日から碌に寝てないわ。思い出したとたんに襲ってきた眠気を吹き飛ばそうと強くアクセルを踏めば、臨也の体が仰け反った。非難の声が上がって、車内が更に騒がしくなってしまったので、やっぱり山においてくれば良かったと波江はとても後悔した。
作品名:さざめきのなかに 作家名:卵 煮子