飛んで行け、君の元へ
勿論静雄は謝った。小さくなって謝って、叱られた子犬のようになっていた。普段のトムなら仕方ないなと笑い、ちょっとは落ちつけよと窘めただろう。けれど今日のトムはいつもと違った。面と向かって怒るでもなく少し叱って笑うでもなく、背を向けてねちねちと言い続けた。
「別にいいけどよ、約束してんのに遅れるなんてよー……ま、いいんだけどさぁ」
ぶつぶつと呟き続けるトムに静雄の中でとうとう何かが切れた。トムに対して怒りが沸き起こったのは初めてだった。普段他者に対して切れるのとは何かが決定的に違う。もっと純度の低い、悲しみだとかやるせなさだとかを混ぜ込んだ怒りだった。
怒鳴りつけてくれればよかったのに。どうしても観たい舞台だったと、そんな理由で遅れたのかと、少しは落ち着けないのかと、怒りをぶつけてくれればよかった。そうすればごめんなさい、何でもするからと謝ることもできたのに。
平和島静雄と喧嘩した。理由は些細なことだった。どうしても観たいと思っていた芝居の当日に静雄が待ち合わせに遅れたからだ。ずっと楽しみにしていた舞台だった。ひとりで観てもよかったが、静雄と一緒に観たかった。なのに静雄はあの情報屋にかまけて遅れたという。それがむなしさに拍車をかけた。自分との約束よりも情報屋の方が優先なのかと。それがなおさら悔しかった。
勿論トムは知っている。静雄が遅れてきた時点で劇場に入ればよかったのだ。チケットはもう渡していた。携帯電話にメールを入れて、自分だけ観に行けばよかった。それを選ばなかったのはトム自身で、なのに静雄に当たるのはお門違いだ。選んだのは、トムなのだ。暴力も切れて回りが見えなくなってしまうのも、一番気に病んでいるのは静雄自身だと知っているのに。
「……んで、んな風に言うんですか、俺が悪いなら悪いって言えばいいのに!」
叫んで走り出した静雄は今にも泣き出しそうな顔をしていた。後姿を見送りながらトムは後悔した。他人とまともに関わることの少なかった静雄にとって、ねばりつく湿度のような怒りを纏わせられるのはどれだけの苦痛だっただろう。感情など完全に隠していつも通りに接するか、それができないのなら中途半端に隠そうとするべきじゃなかった。いっそ怒りをぶつけて怒鳴ってやるべきだった。そうすれば静雄も謝って、何とかなったのかもしれないのに。
もうすべては仮定の話だ。静雄は路地で立ち止まって弾む胸を押さえた。わかっている。そもそも悪いのは遅れた静雄だ。謝らないと。謝って、埋め合わせもすると言って、だから許してほしいと、一緒にいてほしいと言わないと。
だって、与えられた怒りや悲しみややるせなさよりもトムとの関係が崩れる方がずっと苦しい。
暫く呆然と静雄の消えた方を見送っていたトムだったが、舌打ち一つして走り出した。早く追いかけて、頭を撫でて、縮こまっている巨体を安心させて、悪かったと、見限らないでほしいと言わないと。
だって、与えられた悔しさやむなしさよりも静雄から向けられる好意が揺らぐ方がずっと悲しい。
立ち止まった静雄に人ごみを走り抜けるトムが追いつくまであと20秒。
息を切らせたトムに静雄が目を丸くするまであと30秒。
頭を下げた静雄の額と顔を上げたトムの後頭部がぶつかるまであと50秒。
二人が笑いあって仲直りをするまで、あと、あと――
作品名:飛んで行け、君の元へ 作家名:浅黄カスミ