痣
まだ、彼らの古びたアパートの大家が、明るく笑う年若い女性ではなかった時代。
天窓から、美しい光が差し込んでいる。すでに熱はガラスを通る過程で奪われて、ただ燦燦と明るさだけが残った、快い光。窓際に並べられたガラス瓶は、それぞれの色がリズミカルに調和して、その向こうの海をカラフルに染める。
タンクトップ一枚の肩にどこからか吹き込む風を感じながら、吉村は、小ぶりな冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、ちょっと周囲を見渡してから、直接口をつけた。
「ダメよ。直接飲んじゃ」
いかにも女らしい言葉遣いと裏腹に、ピシリ、と鞭で打つような、太くも大きくもないが響きのある男の声。
郷里に戻っていた男が帰ってきたと悟る、と同時に、ぴ、と背筋を伸ばして、ダンサーがターンを決めるように振り向く。
擦りガラスのはまった玄関の戸をゆっくりと閉めている、このアパートの二人しかいない下宿人の一人に向かって、あえてちょっと口を尖らせ、不平らしく言う。
「いいじゃないよ、ちょっとくらい」
と、言いかけた、半開きの口のまま、動きを止めた。
生成りのスラックスに、白いシャツ。白い光の中で、ゆっくりと振り返った顔の半面に当てられた手。あまりぴったりと覆っているので、子供が何かの図版で見た、ヴェネチアの仮面の祭りの真似事をしようとしているような。
すう、と総身が冷える。神経だけが勝手に研ぎ澄まされ、熱のない、白々とした光が、逆に身体の暖かさを全て奪い取っていく。
そのまま、すうと何事もないほうの顔を見せて、自分の部屋のドアに滑り込もうとする、その空いたほうの手を、掴んだ。
「ちょっと、見せて」
「吉村、いいのよ」
ゆっくり、恐る恐る、繊細な上にも繊細な手つきで、頬を押さえる手を外した。抵抗するというほどの力はなく、ゆっくりと降ろされる。
痣。目の下、頬骨に沿って赤黒く腫れて、外縁の方は奇妙な薄い黄緑になっている。白い肌に、酷く痛々しい。
「どう、したの」
「父に」
言って、ふいと顔を背けた。一度だけ見たことのある、昔気質を絵に描いた様な、ゲイなどという存在がこの世にあることすら想像せずに生きてきたような、父親の姿を思い浮かべる。何を言われたか、どうしてそうなったのか、瞬時に悟る。
自分は、よほど痛ましげな顔をしていたのだろうか。笹川が、泣く寸前のように僅かに顔をゆがめた。じっと堪えた顔を、再び仮面のように手で覆う。
「部屋に戻るわ」
「手当てしなきゃ」
「いいわ。湿布、顔に貼るわけにいかないでしょ」
唇の端を上げて、ちょっと笑って見せようとして、痛んだのか顔をしかめた。
そのとき。必ず軽くギィと軋むドアの奥、このクラシックなアパートの大家の部屋から出てきていた男が、声を発した。
「どうしたのかな。笹川君」
落ち着いた声、静かな雰囲気。ゆったりと近寄って、子供にするように顔を覗き込み、笹川の手をそっと外させる。
絵の具をなすったような赤い痣に、何を言うでもなく、ただ、触れるか触れないかのところに手を添える。
「手当てをしてもらいなさい。冷やすといいよ」
そういって、なあ、薬箱はどこだっけ、と娘の名を呼びながら曲がった階段を上がって行く、大きな背中を見送る、笹川の、その半分の顔。
熱のない光を浴びて、額際でくるくるとカールして伸びた髪が光る、その下にある顔。名状しがたい表情、吉村にとっては名づけることそのものを恐れる顔。
笹川の背筋がぴん、と伸びて、頬を押さえていた手を外す。見られることなど、怖くはない、というように。
凛として、だがどこか頼りなくて、迷子の子供が、やっと親を見つけた時のように安堵に満ちている。世界の恐怖を全てさえぎる盾、あるいは柔らかく包みこむ繭に憩うことが出来た、そんな顔で。
ちりり、と胸がひりつく。何か、黒い形のないものが、首をもたげる。自分では、彼にそんな顔をさせることはできない。もうずっととうにそんなことは諦めてしまった。
そして、もう一つ、ずっと考えていたこと。
彼が、そんな顔をし続けることも望まない。
それならば。
「ほら、結城さんもそういうじゃない。とりあえず、氷嚢でいいかしら」
冷凍室を開けながら言う。ひやりと漏れ出でて、重力にしたがって地を這う冷気が、徐々に足元を浸して行く。静かな冷気の層が、さらに落ちて行くような奈落が、自分の足元に空いているのを感じる。
製氷皿を引っ張り出して、ごとり、とキッチンに置いた。白く濁った氷の上に、ガラス瓶の色が落ちる。
今だけは、優しく笑ってあげよう。今だけは、同じ小さな傘の下で世界に立ち向かう同士で居てあげよう。
容器にびっしりと張った氷を、パン、と叩きつけた。