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眠れぬ子のための戯曲

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 下の名前を、聞いたことがない。
 折原臨也が『ソレ』に気が付いたのは、起きぬけに歯を磨いているときだった。
 臨也の生活は夜型のために、すでに陽は昇りきっている。口の中をゆすいだあとに、キッチンに立って、窓から差し込むうるさい光に目を細めながら、臨也はとっぷり、考えた。
 臨也はいわゆる「情報屋」であったので、もちろん彼の下の名前は知識として知っているし、それでなくても、渡された名刺のために、最初から知識として与えられていたが、それでも、それは、決定的な違和感として、臨也の奥歯に挟まった。臨也は彼の、下の名前を、彼の口から聞いたことがない。そしてまた、臨也は、彼に下の名前で呼ばれたことがないのだった。
 
 夜の新宿を、滑るようにベンツが滑走する。場所と、時間と、外車という取り合わせに、敬遠しがちに見てくる者もあれば、そもそも視界に入っていない様子で通り過ぎて行く者もいる。後者がこれから先、致命的な厄介事に巻き込まれて、生き残れるかどうか、暇つぶしに試算していると、隣で紙の束がばさりと落ちる音がした。
 四木が、臨也の持ってきた情報の値踏みを終えたようだった。先ほどまで目線の高さに持ち上げていた書類が、今は四木の膝の上に乗っている。
「相変わらず、結構な仕事で」
「お褒めにあずかり光栄です」
 にこり、と口角を釣り上げるのを、四木は眉ひとつ動かさずに観察する。時に商売のタネにもなる臨也の美貌は、四木の心を何一つ、動かさない。臨也は人間の心境を把握するのに長けていたが、四木は、彼とは利害が一致し、立場があり、理性も人一倍あるため、どう動くが予測はできても、静雄同様に、何を考えているのか掴みかねる人間だった。
「では、報酬は口座に」
「はい。ところで四木さん、このあと、時間はおありで?」
 四木の手にはまった指輪を撫でながら、問いかける。四木は臨也の細い指を見つめて、運転手に行き先の変更を告げた。
  
 途中で運転手に下ろしてもらって、四木の私用の車に乗り込んだ。四木の自家用車は、やくざ者とは思えないファミリータイプのワゴンであり、臨也は、初めてその車に乗せてもらったとき、落差に、若干のおかしみを覚えたものだった。すでに馴染んだ助手席を撫でながら、臨也は隣に座り、無表情に運転をする四木をうかがい見る。
「今日は、落ち着きがありませんね」
「やっぱり、バれてしまいますか」
「あれで隠せると思いましたか」
「いえ」
 四木の部下にはバれず、彼にだけは分かる程度に、臨也は自分の感情の波を漏れさせていた。そしておそらく、四木はそういう臨也の計算まで見抜いているのだろう。彼は、信号で止まったのをいいことに、ポケットから煙草を取り出す。臨也がライターを取って、四木の咥えたたばこにつけてやると、彼は笑いながら、煙を吐き出した。
「それで、一体、どうしたんですか」
「別に、これと言って、特別な用があるというわけではないんです」
 ただ、と臨也は声を潜ませる。青空のようだと言われる声が、媚を売るような響きを持ち、四木の視線が、臨也に向けられた。
「四木さんの下の名前を、忘れてしまって。だから、教えて欲しくて」
 そんなことかとも言わず、下らないとも切り捨てず、四木は臨也の求めに、余計なことを一つも差しはさまずに応えた。
「――」
 流れていくネオンの中に、四木の夜のような声がしっくりとなじんで、溶けていく。臨也はその声を耳にしっかりと記憶させながら、もうひとつ、四木の耳郭をなぞりながら、静かにねだった。
「オレの名前は、覚えていますか」
「そんなもの」
「ねえ、呼んでください」
 四木はうるさげに、臨也の手を払い、横目を再び流して、しばらくの沈黙を保ったあと、やはり、眉ひとつ動かさずに、臨也の求めに応じるだけだった。
 いざや、と。
 大きな声ではないのに、耳にいつまでも残る声が、臨也の鼓膜を震わせた。
 四木を、どう思っているわけでもない。
 愛はない。
 恋も。
 ただ、彼に認識されることは、やぶさかではない。
 彼の、声も好きだ。
「満足しましたか?」
「――ええ、とても」
 そのとき、信号が赤になったから、臨也は助手席から身を乗り出して、四木の口から煙草を取りあげ、唇を塞いだ。彼の愛する、苦い、タバコの味がする。
「ありがとうございます」
 臨也は席に元の通り戻り、四木のタバコを咥えて、むせながらその煙を味わった。
「餓鬼が」
 ぼそりとした四木の声が、どこまでも遠く、尾を引いて、残響する。
 臨也は眠るように、深く助手席に体を沈めて、タバコを深く、吸い込んだ。目を閉じると、声が木霊する。遠く、近く、子守唄のように。
作品名:眠れぬ子のための戯曲 作家名:米丸太