Tmorrow never knows
「想いを遂げる……か」
十年前、いやそれ以前かもしれない。自分はなぜそれが出来なかったのだろうか。
忘れようとしていた想いに駆られ胸の奥が痛んだ。
小さな針で突いたような痛みは、例え小さな波であっても、寄せて返すうちにやがては大きな波となる。大きなうねりとなったそれは、津波のような勢いで全身を覆い尽くし、この身を粉々にして吹き飛ばしてしまいそうだ。
心の傷は耐え切れない痛みになってしまうだろう、と未知のものに畏れを抱く。
達海は、そのような思いに浸りながら夕暮れの空を見上げていた。
ETUのクラブハウスの屋根に上ると、さまざまなことを思い出してしまう。ここには思い出が多すぎるせいだろうか。頭をからっぽにしたいと思っても次から次へと浮かんでは消える記憶が多すぎた。
サッカー選手としての自分に対して後悔はない。全力を尽くした。プレイヤーとしてピッチに立てなくなる日が想像以上に早かったこと。笠野との約束が果たせなかったこと。それは残念だが、選手として後悔や未練の思いはない。
しかし、忘れてしまおうと決めていた恋の炎を小さく燻ぶらせるのは、ここに戻って来たためだろうか?
達海は朱色に染まる空をただ眺め続けた。
そこへ小さなドアの開閉音がしたので、思わず達海は体を起こす。見覚えのあるふわふわと好き勝手に揺れる茶色の髪が視界の隅に引っ掛かった。
「おーい。世良」
「チィーッス!監督」
思わず屋根から声をかけると、元気な声が返ってきた。
「そんなところにいると有里さんに叱られるっスよ」
「じゃあ。世良も登って来てよ。そんで一緒に叱られてよ」
自分を見上げる世良に向けて達海は、「これをやるからさ」と、言ってアイスを振る。
「しょーがないっすね。でもアイスはいらないっスよ」
世良は笑いながら梯子に足をかけると、軽い身のこなしで屋根によじ登ってきた。
「お邪魔しまーす」
達海の隣にちょこんと座りこんだ世良は、目の前に広がる夕焼け空を見つめた。
「いい眺めっスね」
「いいだろ?」
「はい」
「ほれ、パピコ」
達海が半分に割ったアイスを差し出すと世良は一瞬考え込む顔つきになる。
「堺には黙っているよ?」
「うーん」
世良は受け取るべきか断るべきか、と悩みながら中途半端に手を出したり引っ込めたりする。
「これは脂肪分がないから大丈夫だって」
「そうじゃなくって。俺、禁欲中なんスよ」
世良は照れ笑いを浮かべて頭をかいた。
「お前、何を我慢してんだよ」
「甘いものと……あと、堺さん……っス」
頬を赤く染めた世良は小さな声でぼそぼそと呟いた。最後の方は聞きとるのもやっとの小さな声だったが、達海の耳にはきちんと届いた。
「世良。二つも我慢することないよ」
恋人と甘いものを並べて考える世良の無邪気さが可愛らしく思えてつい優しい口調になる。
「そうっスか?」
「うん。そうそう」
「じゃあ。いただきます」
そろそろと手を出しアイスを受け取った。
「にひひー」
「監督、なんで嬉しそうなんスか」
人の悪そうな笑顔を浮かべる達海を気味悪げに見つめながら世良はおずおずとアイスを口に含んだ。
世良がアイスを食べ始めたのを見届けると責任感のかけらもない声で達海はしれっと呟く。
「実はこれに脂肪分が入っているかどうか知らない」
「マジっスか?」
慌てた声を上げながら腰を浮かせかけた世良を見て達海は愉快そうに笑った。
「細かいことは気にするなよ」
「ははっ。そうっスね」
世良も一緒になって笑うと、美味しそうにアイスを食べ始めた。
達海はしげしげと隣に座る世良の横顔を眺める。川から流れて来る涼風に呷られて、世良の明るい色の髪がふわふわと揺れていた。
(To be continued…)
作品名:Tmorrow never knows 作家名:すずき さや