世界が終わる7日前
うん、終わったよ試合。
結果? ああ……
父さん、今晩遅いんじゃないかな。たぶん。
私? 私は大丈夫。大丈夫よ。
今ね、池袋。友達とね、百貨店でブーツ買おうって。
大丈夫、大丈夫よ。夕飯までにはちゃんと帰るから。
公衆電話の受話器を置いた。友人の家にかける余裕は、もう残っていなかった。
試合終了と同時に、雨が上がるなんて、なんて意地悪な空なんだろう。いや、晴れていたところで、結果は変わらなかったかもしれない。それほどの、敗北。スコア以上の、敗北だった。
ブーイングの気力すら尽きて、呆然と小雨に打たれるゴール裏から抜け出して、顔色を失ったボランティアスタッフの間を通り、駅へと逃げた。
そう、逃げた。
行き先は決めずに、上野に向かった。ただ人の多い方へ、多い方へ、行きたかった。できれば、サッカーなんて知らない人達がいっぱいいる方がいい。サッカーなんて知らない人は、この世の中にはいっぱいいる。
十二月。十二月を、街が殊更に主張する。
冬休みに、クリスマスに、お正月。十二月は、楽しいことだらけ、だ。
とりあえずみんな楽しい顔で、だから立ち止まってちゃいけない。そうだ靴を買おう。有里は思った。
(あの人と同じスニーカーも、随分とくたびれてしまった)
ホーム上で案内板を探した。容赦のない雑踏に、何度もぶつかりながら、改札口を探す。
ひとりで降り立つ巨大ターミナルは、小柄な有里には何もかもが息苦しい。目的の百貨店は見えていても、道のりがわからない。誰かに尋ねようにも、ここでは誰も立ち止まらないことを知っている。東京の街中は、大抵そういうものだ。
ようやくたどり着いて、イルミネーションを少し見上げて、エントランスをくぐった。
百貨店の一階は、いつだって化粧品の匂いがする。きらきらと輝くアクセサリー。途切れることのない人波。ここに、サッカーは、ない。お望みの世界だというのに、何だかとても空しかった。
財布の中身は判っていたから、試着する気にもならず靴売り場を去った。のろのろと動くエスカレーターで上層階の書店を目指した。つとめてスポーツ雑誌売り場を避けて、漫画売り場に向かう。いつのまにか新刊が出ているものもあったが、いつから読んでいないのかを思い出せずにあきらめた。
何もかもが、うまくいかない。CDショップをひやかして、窓の外を見下ろせば、別館フロアの屋上があった。この冬空の下、遊具場もフラワーショップも閑散としている。だが、店頭に飾られたポインセチアに惹かれて、有里は向かった。ポインセチアは、馬鹿みたいに赤い色をしていると思った。
おそらく今夜、父は帰らない。それを母は何も言わない。やがて不機嫌な叔父が姿を見せて、商店街の誰かが来ては溜め息を残す。大切な選手は去って、チームは一度ばらばらになる。年が明ける。シーズンが始まる。だから世界が終わるわけじゃない。わけじゃないんだ。
「800円になります」
真っ白い紙袋に、真っ赤な鉢植えを詰めて帰宅した。何かいいものあった? 問い掛ける母に生返事で応じた。さっきお父さんから電話があってね、有里はちゃんと帰ってるかって。今お風呂入ってますって答えておいたわ。そうそうお風呂沸いているから早く入りなさい、身体冷えたままじゃ風邪ひくわよ。
玄関にポインセチアを置いた。これだけでも、充分にクリスマスだ。有里は頷く。
この冬初めてのおでんも、テレビのバラエティ番組も、何もかもが上滑りしてゆく。
「リンゴ剥いたわよ」
器を手に通りがかった母。有里は母に告げた。
「お母さん、私ね」
サッカー観るの、もうやめる。
「……そう」
そうね、今度は女の子らしい趣味を始めてみてもいいんじゃないかしら。母は呟いて、台所へ消えた。
りんごに手を付けることなく部屋に入って、扉を閉めた。女の子らしい趣味。有里は考える。今なら編み物だろうか。クラスメイトが授業中、時折教師から注意を受けながら、それでも机の下で編んでいたことを思い出した。しまいには生活指導の担当に没収される憂き目にあいながらも、彼女が作り上げたマフラーは、憧れの先輩とやらに無事渡された、らしい。
(手芸関係の趣味? ないよ、ないない)
そうひとりごちて、本棚にさしたアルバムに手を伸ばす。あえていうなら、写真だろうか。
通学鞄の中にも入れて、持ち歩いている使い捨てカメラで、撮りためた写真。はじめは友人や自分の顔。やがて街の風景。そして。
(あの子にあげたわけじゃなかったのか、これ)
それはETUの星を捉えた、会心の一枚だった。
一時期、共にスタジアムに通った同級生。彼女と有里が好きだった選手はもういない。
そして、彼女ももう、スタジアムに足を運ぶことはおそらくない。
(確か今日はコンサートって言ってたな)
楽しそうな同級生の顔を思い浮かべる。落ち込みすら馬鹿らしくなって、立ち上がった。
「お母さん、まだリンゴ、残ってるよね!」
扉を開けて、声を放った。
写真はしばらく、机の引き出しにしまっておくことにした。