相愛相殺、上書きして恋
夕日で教室が赤かった。
その教室の窓際にただ一人佇む彼女の影が黒くて、また机や椅子の影が赤い教室に浮かんでいて、綺麗だな、と出入り口付近で彼は呆と眺めていた。暫く眺めていたいような、しかしすぐに声をかけたいような、さてどうしよう、と考えていると、彼女がゆっくり、ゆっくりと彼の方へ顔を向ける。
彼女の眼が赤かった。
逆光で輪郭より他は曖昧な中で、黒い影に赤く光る眼だけが浮いている。
ああ綺麗だな、とぼんやりしている内に彼女は急速に彼との距離を縮める。タン、と音がして壁でも蹴ったのかと思った次の瞬間、彼は床に押し倒されていた。
「園原さん……?」
呼んでも返答はない。腹の上に座り込んだ彼女は瞬きもせずに彼を見ている。いつもと様子の異なる彼女に首を傾げ再び呼んでみようと口を開くが、その口は彼女の左手に封じられ、彼は目を円くした。そしてその目は彼女の右手から伸びる日本刀を捉える。
まさか、と思わないこともなかった。彼女に刺される、斬られる、殺される、そういう状況なのかも知れない、という考えがあったにも拘らず、彼は身の安全を放り出した。彼女の左手で隠れた口唇は、誰が知ることもなく端が緩む。
こんなに綺麗な教室で、恋する彼女に、殺されるかも知れないなんて!
恐怖がなかったのではないが、上がる心拍数も、止まらない震えも、それだけに起因しているわけではない。自身が笑っていることにも気づかない彼は自覚のないまま、この状況を、空間を、非日常として愛してしまっていた。
『愛してる』
彼女の口からその言葉が紡がれたとき、彼はどうしようもなく幸福だった。
切っ先が下を向き、夕日を反射して赤く光る刀身が彼の首筋を掠めて床に突き刺さる。
その刀身が触れた箇所から『彼女』の『声』が雪崩れ込んでくる。
『愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる』
その『声』に対して彼は
「僕も愛してる」
うっとりと微笑んで返した。
「僕も愛してる」
我に返った杏里がまず理解したのがその言葉だった。真っ白な思考の中にその言葉が投げ込まれて波を立て、次第に彩がつく。夢から覚めたような、そんな感覚に次の言葉が投げ入れられる。
『愛してくれるのね嬉しい愛してる愛してくれるのね愛してる愛してるって言ってくれたわ嬉しい愛してる愛してる愛してる愛してるわ!』
そこで漸くこの状況を理解した。床と自分との間に帝人がいて、罪歌が床に突き刺さり、その刀身が僅かに、しかし確実に帝人の首筋を傷つけている。ザァ、と血の気が退いた。罪歌を引き戻すも、もう遅い。帝人を斬ったことは覆らない。
『どうしてかしら嬉しい愛したのにどうして愛してる愛したいのに愛させてくれない』
ところが罪歌の様子がおかしいことにも気づく。恐る恐る帝人の眼を見れば、黒。
「園原さん?」
どうやら罪歌に支配されているわけではないようだった。そのことに安堵する間もなく
『愛してるって言ってくれたのに!』
罪歌が叫ぶ。
支配されていない、ということは帝人が自分の意思で言ったということだ。
それは杏里に対してなのか、それとも罪歌に対してなのか。杏里には判別がつかなかった。相応に好かれていると自負しているが、あの『声』を杏里のそれと間違えるとも考え難い。加えて罪歌は叫び続けている。いつもと違う言葉に頭痛がしそうだ。
「園原さん? どうしたの?」
眉を顰める杏里に帝人は心配そうに首を傾げるが、途端に表情を歪めた。息を詰め、左側の首筋を押さえる。罪歌に斬られた傷からは血が滲んでいる。
『愛したのに愛したいのに愛してるって言ってくれたのに』
その傷はその証だというように存在している。
――ずるい
そんな感情があった。
――ずるい
――ずるい
――ずるい
――私に言ってくれたことはないのに
感情のままに傷に顔を近づける。
「ッ――――――!!?」
思い切り噛み付いた。滲んでいた血が舌先に触れて鉄の味がしたが構わない。プツリ、と皮膚が破れて新たに血が溢れる。そんな趣味はないが、床や制服に付着するのもどうかと考えて溢れた分だけ掬い取るように舐める。それでも止まらないから吸い出してしまおうとやや強く吸うと、そこで初めて帝人が抵抗した。
「ちょ、ちょっと園原さん!? 待って、止めて!!」
顔を上げると、真っ赤になった帝人が涙目で見ていた。結構なことをした、と自覚して杏里の顔も赤くなる。慌てて帝人の上から退き、謝ろうとすると
「僕が、病気とか持ってたらどうするの!?」
ややずれた言葉が飛んできた。ポカン、と口が開いたまま杏里は二の句が告げない。
「園原さんが病気になったら、僕、嫌だよ」
他人の血液なんて口に入れちゃ駄目、と強い口調で言われても笑いが込み上げてきて、つい声を立てて笑ってしまった。赤い頬が、真剣な表情が、嘘偽りのないそれで今度こそ安堵する。笑わないで聞いて、と訴える声が愛おしい。
「ごめんなさい」
笑いながらでは説得力もないかも知れないが、言うと帝人は口を閉じた。
「ごめんなさい、痛かったでしょう」
「あ、ううん、平気だけど」
先を言い澱む帝人の手を取って起こすと、鞄に入っていた絆創膏を傷に貼りつける。
「これしかなくて、あの、本当にごめんなさい」
「え、いいよ、ありがとう」
やわらかく笑う帝人は先程のことなどすでに忘れてしまったかのように礼を言う。それ以上ややこしくするのも気が引けて杏里も、はい、と返して笑うだけに留めておいた。
帰ろうか、と2人で教室をあとにする。赤かった教室は、少し落ち着いた色に変わっていた。
さてこの時、帝人はその絆創膏が可愛らしい絵柄つきのものであるとは全く気づかず、家に帰って少々恥ずかしい気分に陥ることになる。
更に翌日、首筋に絆創膏を貼りつけた彼を見て正臣が面白おかしく話を脚色して広げようとするのを必死で止めることになるのだが、今の彼には知る由も無かった。
作品名:相愛相殺、上書きして恋 作家名:NiLi