遠くて、近い
開け放たれた縁側を望み、外からはカナカナカナと自国では聞くことの出来ない虫の声がする。
カナカナカナ。高い音で長く尾を引くように鳴き続ける声に耳を傾けいたが、腰元で低く、失礼という声がしたので顔を下にさげた。
視界に映る黒髪のつむじ。相手はイギリスの浴衣の合わせを正すと紐を手に取って彼の腰に回す。その時、着付け作業をしている彼の顔がイギリスの身体に密着する形になって不覚にも顔が赤くなった。それを誤魔化すように視線をパッとそらして右手で口元を覆う。
「イギリスさん…?」
流れる空気の動きを敏感に拾った黒い双眸がふっと下から不思議そうに見上げてきた。
あああこの角度は非常に不味い。顔をそらしつつ、イギリスは空いている左手を振ってなんでもないと口早にいった。すると相手は僅かに首を傾げて、そうですかと呟くと再び紐を結ぶ作業に戻った。
イギリスは気付かれないように息を吐き出し、黙々と進められる着付け作業を大人しく待っていた。
「お待たせしました、これで出来上がりです」
「お、おう、…さんきゅ」
背中から声を掛けられ、着慣れない浴衣に違和感を覚えつつ、紐と帯で上手く固定された一枚布で出来た衣装に、くるりと無意識に回転する。足元を大きく広げられないが、歩きにくい程でもない。へえ、と声を漏らすイギリスに正面に回り込んできた黒髪の青年が、いかがですか?と、問うてきた。こういう時になぜか素直に慣れないイギリスは、ぼそりと答えた。
「まあ…、悪くねえな」
「ふふ、有り難う御座います。さて、準備も出来ましたし、お祭へ出向きましょうか」
素直じゃない返答に、相手はくすりと笑ったのだった。
「随分賑やかだな」
「えぇ。我が国民はお祭が大好きなんですよ」
ゆっくりと屋台が連なる道を歩きぬけながら、ぽろりと零せば隣を歩く黒髪がさらりと揺れた。
こどものはしゃぎ声と、客寄せをする男や女の声。それとなにか楽器の音がする。と、隣を歩いていた存在の気配がふっといなくなったことに気付き、イギリスは慌てて振り返った。
この喧騒と人ごみの中でひと一人を探し出すのは骨が折れそうだ。近くの屋台に目を配り、それらしい背中を見つけてホッとすると、そちらに足を向けた。
水色の大きなケースの中をじっと見つめる背中。イギリスが上から覗き込むと、ケースの中には水が張っており、赤と黒の魚が泳いでいた。
「……キンギョ?」
「わ、…あ、イギリスさん。す、すみません」
いつか見た文献から記憶を照らし合わせ、声を落せば驚きとすぐさま謝罪が返ってきた。どうやら勝手に離れたことに対する自覚と反省はあるらしい。気にしてねえよ、というと、相手は眉尻を下げてもう一度すみませんと呟いた。縮こまる相手にイギリスは苦笑して、話題を戻す。
「これやるのか?」
「あ、はい。一回だけ…」
「俺もやる」
「え…」
隣に同じようにしてしゃがみ、ケースを挟んだ向かいに座る屋台主にピン、と人差し指を立ててみせる。それで伝わったのか、すっと掬い網が二つ差し出され、それと一緒に掌を見せた腕も伸びてくる。網をイギリスが受け取るとポカンとしていた同行者が慌ててお金を掌へと落とした。
イギリスは袖を捲り上げ、どの金魚を狙おうかと目を光らせ吟味はじめた。その隣で黒髪の青年がすくい網を手に、パチリと黒曜石色の双眸を瞬かせる。
あの黒い金魚にしよう。イギリスが決めて水の中へ網を浸す。
黒い色に、隣にいる存在を重ねながら。イギリスは金魚の下に網を持っていき、一気に持ち上げた。
カラン、コロン。カラ、コロ。カラン。ひと気のない夜道を下駄が奏でる音が響く。
隣を歩く黒髪がしきりに右手を持ち上げ、小さな袋に入った二匹の魚を見つめていた。
金魚すくいで一発目に見事に空振りをしたイギリスがムキになって何度もチャレンジし、漸く掬い上げた赤と黒の金魚。
すくい上げたあと、袋に入れられた金魚を渡されたイギリスはハッと気付いた。金魚なんて自国には持って帰れない。後のことを考えずに意地ですくい上げたが、飼うことができないのだ。イギリスは一度は受け取った袋を屋台主に返そうと、口を開きかけ、
「その金魚、私にくださいませんか」
「…日本?」
「イギリスさん、返してしまうおつもりなのでしょう?それでしたら、私にくださいませんか?」
真摯な眼差しと口調に、イギリスは拒否する理由も無かったので袋を彼へ差し出した。相手は花が綻ぶような笑みと共に有り難う御座いますといって受け取った。
「そんなにキンギョが欲しかったのか?」
歩きながら、金魚をすくい上げたあとの経緯をざっと思い返していたイギリスが何気なく問い掛ければ、金魚に向けられていた双眸がイギリスを捉えた。
「私が金魚すくいをやりたいと思ったのは、ほんの気紛れでした。でも、この金魚たちを欲しいと思ったのは…」
「思ったのは?」
「イギリスさん、金魚は文字に表すとどう書くかご存知ですか?」
「あ?…あー、なんとなく、分かる」
「その綴りから、私の大切な方を連想してしまって。この金魚を欲しくなったのです」
遠い場所にいるそのひとに逢えなくても、この金魚を見れば寂しさも紛らわせる。そう静かに言葉を紡ぐ彼に、イギリスは誰を重ねているんだと問えなかった。
おそらく、彼は自分と同じようなことを考えていたのだろう。
「……日本」
「はい」
「黒い金魚もっ、だ、大事に…しろよな」
イギリスが顔を赤くしていうと、日本は瞳を瞬かせたあと、柔らかく目を細めてはい、と頷いた。