泣くからやめた
光の下で怯えて震える睫毛。居たたまれないと書かれた顔はうっすらと色づいている。
わずかに寄った眉間に唇で触れると薄い肩が過剰に跳ねた。
つかんだ手首は大仰な肩書きが嘘みたいに頼りなくて細っこい。
この手が容易にXANXUSを殴り倒すことなど、何度も体験していてさえ性質の悪い冗談のようだった。
我慢しているのだろう。きつく引き結ばれた唇がその心情を物語っている。
「嫌なら逃げてもいいんだぜ」
耳に唇を寄せて低くささやく。薄茶色の瞳に複雑な光が瞬く。
戸惑いと怒り、ためらいに恐怖、後悔も微量。そのくせ感情の光は瞬いただけで諦めたようにすとんと落ち着いた。
「……脅迫、した奴が……何言ってんだよ」
か細い声は苦さに掠れている。
怯えているくせに。嫌なくせに。それでもこいつは逃げやしない。
押し退けて罵倒して、助けを呼ぶなり自分の足で逃げるなりすればいいのだ。
ファミリーの誰よりも強いドン・ボンゴレが男の下で身を固くして歯を食い縛るだけ。
緊張に力の入った体は哀れなまでに鼓動が速かった。
「脅迫、な」
そうだ。あれは確かに脅迫と言えたかもしれない。名目上は交換条件。
綱吉にとって絶対に許容できないであろうことを突き付けた。代わりに綱吉自身を要求して、彼は諾として頷いた。
それだけの話だ。
綱吉がバカなのはXANXUSの要求を丸呑みしてしまったことだろう。
適当な代案を提示することもできずに身を委ねたその愚かしさを、いっそいじらしいとさえ思う。
「オレは受け入れられるとは思ってなかったぜ」
「よく言う……」
忌々しげに歪む目尻に啄むように口づける。
本当のことだ。半ば冗談のつもりで求めたら手に入った。
否、浅はかな獲物は自らこの手に落ちてきた。優しいが弱く、情に厚いがゆえにひどく甘い。
肉の薄い肢体を明確な意図を持ってまさぐれば面白いほど凍りつく。
男に圧しかかられ性的に触れられる経験はかつてない。そんな反応だ。
嫌悪はXANXUSと綱吉自身に向けられている。こうなってしまった責任は双方にあった。
「てめーはバカだな、沢田」
「お前の方こそ」
「なぜ逃げない?」
顎をつかむ。覗き込んだ瞳が隠しようのない困惑に揺れている。
自分で自分がわからない。そういった心の声がだだもれで、見ている方が失笑したくなる。
甘い甘い、とろけるように甘い男は迷子の子供みたいな顔で途方に暮れていた。
だからバカだというのだ。
揺れる瞳はXANXUSを映してなお揺れる。どうしていいかわからない。そう訴えて。
ふ、と苦い笑みがもれた。お手上げだ。バカに付ける薬はないとはよく言ったもの。
呆れの嘆息をこぼして不意に綱吉の上から退いた。
「……XANXUS?」
「興醒めだ」
退いたというのに相手はまだ動かない。
慣れない分野の緊張を強いられていた体はなかなか強張りがとれないらしい。
それに加えて警戒を捨てていないのか、流れに着いていけないのか。たぶん後者だろう。まぬけなのだ。
戸惑いを前面に押し出して見上げてくる綱吉の目元に、そっと手のひらを置いて視覚を奪う。
何もかも気まぐれ。気まぐれだ。そういうことにする。互いの間には何もなかった。それでいい。それが、いい。
最後に一度だけ、物言いたげなその唇に触れるだけのキスをした。
交わる吐息に熱を感じたこともすべて忘れようと思う。震えた肩に欲を煽られたことも、すべて。
離れた体は言い知れぬ空虚をもたらしたが、それらの一切合切を無視して背を向ける。振り返りはしない。
ドアノブに手をかけたその時、ベッドに残された綱吉がXANXUSを呼び止めた。
「どうして、やめた?」
「……興醒めだと言っただろう」
ドアノブを回す。綱吉がどんな顔をしているのかはわからない。振り向く気はなかった。
「XANXUS、どうして……」
弱々しい声がためらいがちに追ってくる。
「お前が――」
答えかけ、その愚を悟って言葉を飲み込んだ。言ってどうするというのだ。
「じゃあな」
ぱたん、と閉じた扉の向こう。板一枚の向こう側に求めたものを置いてきた。
らしくないざまを晒した己を内心嘲る。バカはお互い様だった。
綱吉の甘さが伝染ったのかもしれないと思うと笑えない。そんな埒もないことを考える。
思い出すものはただ一つ。喰らう牙を留めたものもたった一つ。
あいつは自分がどんな顔をしていたかなんて自覚していないのだろう。
それがXANXUSを立ち去らせたことにも永遠に気づくまい。
眼を閉じれば思い出す。闇に浮かぶ。
泣きそうなあの顔が、胸に爪を立てて消え去らない。