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奇跡の海

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海底に、立っていた。

目の前を小さな魚の一団が泳いでいる。
一匹が向きを変えると、つられたように全員がそちらに向き直る。
きらきらと、遠い上空から差し込む光を受けて、銀色の体躯が輝いて見えた。

視界の隅を、何か木の枝のようなものが通り過ぎていく。
ゆったりとまるで、何かの意志のように。

見回してみれば、たくさんの粒のようなものが浮遊している。
泡のようでもあるし、なにか小さな生物かもしれなかった。

橙色の魚がすっと泳いできたので、それに合わせて視線を下へと向けた。
薄青いこの世界で、その色はひどく浮いて見える。

白く、水色がかった珊瑚礁の間を音もなく移動した。
裸足で感じる大地は白い砂のようで、歩くたびに小さく舞い上がっては、また静かに底に戻った。

遠くへと目を向ければ、だんだんと青が濃くなっていくのが見えるばかりで。
終わりの見えない世界を、終わりの世界のようだと意味もなく思った。


不意に、上からの光が遮られる。
何だろうと思って見上げてみると、ゆったりと泳ぐ巨きな魚の姿があった。
その影が自分のいるところを取り込んで、ゆっくりと向こうへ流れていく。

その姿を追うように、思うまま首を反らせる。
限界に来た所でゆるく大地を蹴ると、身体が海に支えられて静かに倒れこんでいく。

ゆっくりと、ちょうど彼が進んでいくのと同じ速さで。
頭の後ろに大地の受け止める感触があって、一度、そっと目を閉じた。

こぽこぽと、ぷくぷくと音が聞こえる。

目を開ける。
天上から降り注ぐ光はゆらゆらと揺れて、どこか頼りなく感じられた。

それが何故だか悲しくて、誤魔化すようにまた目を塞ぐ。
空気の生まれるような音を聞いていると、ふと、流れてくる歌に気がついた。

それはどこか遠くから、誘うように伝わってくる。
透きとおるような、鈴の音のような綺麗な声。
うつくしい音色が耳をくすぐって、自然、口もとが微笑みをかたどる。

ゆっくりと、目を開けた。


瞬間、一瞬だけ全ての音が、途絶えた。


「……」
ふ、と小さく息をつく。
そこには最近やっと見慣れてきた天井があって、頼久は自分が夢を見ていたことに気付いた。
壁の時計に目をやると、針は午前6時を差している。
「……」
少し、驚いた。
目覚まし時計など使わなくても5時には目を覚ましていた頼久のこと、無理もない。
今日は夢を見たせいで定時に身体が目覚められなかったのだろうか。
そう分析していると、ふと、向こうのほうから音が聞こえるのに気付く。
「…?」
布団の中で身じろぎひとつしないまま、頼久は注意深く耳を澄ませた。
聞こえてくるのは、今の気分にはちっとも合わないアップテンポの曲。
歌い手も澄んだ水のような海の姫ではなく、聞き覚えのある男の声だ。
頼久はゆっくりと上体を起こす。
「……」
そして、目に映る光景に既視感を覚えて眉を寄せた。

まるで海の底のような。

薄明かりの静かな寝室。
藍色のカーテン越しに差し込む光が、部屋中を青く染め上げている。
露草色のカバーがかかったベッドは頼久には柔らかすぎて、水中のような心許なさを覚えた。

波間に漂う感覚。
四角い箱の中、閉ざされた水槽の中に。

ああ、と頼久は思い至った。
何故あんな夢を見たのか。
先週だったか、天真や神子殿と一緒に大きな水族館に行った。
そこは全国でも屈指の名所らしく、若者や子供たちの集団が至る所で見受けられた。
中心に大きくひとつ、それを取り囲むように幾分か小さな水槽を、まるで海から切り取ってきたかのように作り上げてあった。

海のジオラマ。
閉ざされたそこだけの世界。
あの巨きな魚――いや、魚ではないのだったか?――は、何と言う名前だっただろうか。
あんなにも大きな水槽だったのに、彼が泳ぐ様は随分と窮屈そうにも見えた。
そして、海の懐の深さを知った。
彼らを平然と包みこみ、育みさえするあの海原は。

「……」
そんなことを考えていたから、この部屋の内装と混ざり合って海の夢を見たのだろう。
頼久は単純な自分に苦笑しながら起き上がり、寝室を後にした。

扉の向こうは朝日が目一杯差し込んでくる居間で、あまりの眩しさに頼久は思わず目を細める。
キッチンからカチャカチャと、食器の触れ合う音がしていた。
そして、先程から流れていた小さなメロディ。
流行歌なのだろうか、そういえば最近テレビなどでよく耳にしていた気もする。
それを何だか楽しげに口ずさみながら、彼はこちらに背を向けていた。
カンカン、と卵を打ち付け、フライパンの中に割り入れる。
ジュウッと音がして、途端に美味しそうな匂いがここまで流れてきた。
「――天真」
くる、と彼が振り返る。
「オハヨ、頼久。悪ィ、起こしちまったか?」
「いや…来ていたのか」
「ああ、朝メシ作ってやろうかと思ってさ。パン切らしてただろ?」
そこ座って待ってろよ、とテーブルを指差して、再びガスコンロへと向かう。
頼久はそれにうなずいてから、2人分のコーヒーを入れるべくカップを取った。
「俺、今日バイト休みになったんだけど。どっか行きたいトコあるか?」
目玉焼きを皿に移しながら天真が口を開く。
「バイトが?そうか…そうだな…」
頼久もカップにお湯を注ぎながら、今日1日の予定をさらってみる。
本当は天真が午後からバイトのはずだったので、部屋の掃除でもしてのんびりと過ごそうかと思っていたのだが。
「特にないならまあ、部屋でゴロゴロしててもいいけど」
でも彼が休みなら、少々遠出してもいい。
「…我が儘を言ってもいいか?」
そう前置きすると、天真はびっくりしたのか目を丸くした。
「え、別に、そりゃいいけど…なに、どこ行きたいんだ?」
普段からあまり我が儘は言わない男な上、こちらに来てからは地理に詳しくない分どこかへ行きたいと言うこともなかったので、天真はそれがどこなのかと興味深々に尋ねた。

「海へ」

「…海?」
きょとんとして、天真が繰り返す。
「ああ。どこでも構わないが、できたら砂浜がある場所がいい」
いつものように大真面目に言っているのを目の色で確認して、天真は口角を上げる。
「なんだよ、海水浴でもすんのか?」
「いや…」
頼久はしばし言いよどみ、寝室のほうをちらりと振り返ってから。
「見たいと、思って」
「海を?」
「ああ」
ふーん、と天真はそれ以上は追求せず、コーヒーをすすった。
「いいぜ。じゃあ朝メシ食ったら行こうぜ、海!」
そう言って、こんがり焼けたトーストにかじりつく。
頼久も目玉焼きをつつきながら、こくりとうなずいた。


海へ行きたい。
切り取られた小さな水槽の中じゃなく。
裸足で砂を踏みしめて、海を渡る風を全身で感じて。

確かめたいと、思った。
全ての源、言霊に生みと呼ばれた大いなる存在を。


この世界に異質な自分をも包み込む、あの海原を。


[終]
作品名:奇跡の海 作家名:秋月倫