マットの日々
第一歩を踏み出すのはいつでも勇気が必要だ。
ドキドキならいい、好きなもののためだったら。大好きなものと一線を引くための一歩って、どんな気持ちだろう。想像できないし、したくない。
体育館に入ってみんなでマット用具の準備を終わらせた。
「じゃあ僕、また部室に戻って雑務を済ませてきます」
そう聡史が言った時、俺には唐突に小さな動揺が走った。
聡史はマットに入らない。
ほんのついさっき“マネージャーとして”挨拶を聡史はして、それをみんなあったかい拍手で迎え入れた。俺も手を叩いたりして。それは本当に、腹から沸き上がる気持ちだったし。偽りじゃないし。
なのに俺は、鈍いのだろうか、今更ここで聡史がマットに上がらない現実を突きつけられている。
ここにいる部員たちの誰より小さな背中が出口に向かって小走りしていく。亮介が「おう、がんばれ~」と小さく拳を掲げると、「はい! 亮介先輩も、練習がんばってください」と笑顔の横顔が覗いた。木山の脇を通り抜けて遠ざかる背中のこっち側で、航と金子が上履きを脱ぐのを競い合いながらマットに上がろうとして、それに日暮里が追いかけるのが視界を覆う。水沢がノートを手にしながら俺に近づいてくる。
「待って、聡史!」
出口に辿り着く寸前で俺に声をかけられて、聡史はそこで立ち止まった。
「え? はい? なんですか悠太先輩」
用具の準備が終わってから体育館へやってきた火野に道を譲りながら、聡史はくるっと振り返る。
聡史はウサギみたいだ。そういう小動物を連想する。振り返った目も丸くさせて、俺の言葉をきょとんと待っている。
「んだよ悠太。用あんならとっとと言えって。さっさと練習始めようぜ」
ちょっと言葉に詰まっていると、航にせっつかれた。いたいなケツ蹴ってくるなよ。でも、航が押してくることで、いつの間にか回転が始まっているんだと、もう思っている。
――マネージャーってやつになれよ。
航が聡史に言った言葉だ。
俺には言えない。
その言葉を聡史に投げてやるには、俺は聡史の日々をよく知っていた。それは努力の日々だ。努力は新体操へ向けてだ。
離別ではない。それはわかっている。13m四方のフロアから、ラインが引いてある。常にラインオーバーの位置。遠くはない、けれど入っていけない位置。
挑戦すら絶たれて。
それは、どうなんだろう。俺には想像できないし、したくないんだ。聡史を失いたくない気持ちと、聡史が何故なんだという気持ちと、何が聡史のためになるのか模索する気持ちと・・・・・・だけど何が聡史のためには正しいのかなんて、俺には到底わからなかった。
新体操を見詰めるか。すべて断ち切るか。
大好きなもの見詰めるのか。断ち切るか。
「聡史」
だからこれから言う言葉が、果たして聡史にとって正解なのか・・・・・・本当に聡史にとっていいことなのか俺はよくわからないんだ。
航がマネージャーになれと言えたのは無知ゆえだ。
航の無知が聡史を救った。
無神経に荒れ狂う突風のようなその心が、聡史の心を羽のようにさせて、何も言えなかった俺をも胸に詰まった想いを言わせてくれた。もしかしたら聡史を不要に悩ますかもしれないけど、俺が確かに思うことは、聡史が新体操部に必要な人間だという事実。
聡史は笑っている。聡史を失いたくなかったが、聡史の笑顔を殺してしまうなら新体操部にいてなんて言えない。そんなことはできなかった。だが聡史はいまでも笑っている。たとえ、おそらく、あのウサギみたいな顔の裏にたくさんの、きっと俺が想像する以上にたくさんの、涙が隠れていて、それでも聡史の笑顔は強く本物だ。
それがひとつ真実なのだろう。
ひとつの真実だと思う。絶対の正解でもなく、今後また別の正解が現れるかもしれないという下に置いた、ひとつの真実。
「一緒に柔軟するぞ」
聡史は、何を言われたかわからないといった表情で俺を見ている。目が丸くて、口も丸い。その顔がおかしくて俺はくすっと笑えることができた。こっちが救われる思いだ。
「柏木先生に聞いた、どれくらいなら体を動かしても負担にならないのか。大丈夫だよ」
正確には、柏木先生からではなかったけど。
生死に関わるほど新体操が聡史の心臓に負担をかけると知ったとき、俺は思わず柏木先生に詰め寄ってしまったんだ。
本当なんですか。聡史は新体操がもうできないんですか。どうにかならないんですか。どうして聡史なんですか。
辛そうに困った表情をする柏木先生を見かねて、職員室にいた聡史の担任教諭が、聡史の親から連絡報告された体に関する日常生活の注意事項を教えてくれたんだ。そうして、体育の授業ならどの程度まで可能かなどを説明してくれた。
柏木先生に迫ってしまったことは自分でも理不尽だったと思えるし、そのへんの事情は事細かに言うこともないだろう。
俺が聡史に言えることは、なんなのだろう。
航はおそらく、聡史に対して仲間という想いで繋ぎとめたんだ。
俺に言えることはなんだろう。
「好きなんだ、俺」
聡史の日々を知っているから言える。
「おまえのパフォーマンス。ぜんぶ捨ててしまうことはないよ。付いてこれる範囲でいいから」
覚えてるか、聡史おまえ、キャプテンとしての俺に『付いていきます』って言ってくれたこと。知ってるか、俺をどれだけ勇気付けてくれたって。
「付いてこい」
キャプテンの特権乱用でかまわない。俺は聡史を、新体操の想いで繋ぎとめたい。
不意に聡史がすっと走り出した。
あ、と思ったけど、ウサギが跳ねるみたいに軽やかに、ぱぱっと上履きを脱ぎ去ったかと思うと、聡史は航と金子と日暮里の隣に立った。俺の目の前。そこはマットの中だ。
「はいっ!」
聡史が力の限りの返事をした。
航が「しゃーーーーーーーーー!!」とわけのわからない奇声を発して、亮介と木山も押し寄せてきて狭いマットはごちゃごちゃ状態になった。金子が倒れて、日暮里が乗っかって、航がダイブをかました。
笑い声の向こうに火野が呆れたような顔で俺たちを見やっているのが見えた。火野、おまえからすれば甘ちゃんだと言われるだろうか。これが鶴見だったらどうなんだろうな。
でも俺、聡史を失いたくないんだ。聡史が積み重ねてきた日々を、今すぐにすべてなんて失ってほしくない。甘ちゃんだろうか。甘ちゃんでもいい。いま目の前に聡史の笑顔がひとつの真実なんだと言いたい。
「さあ! 練習開始!!」
ぎゃーぎゃーと喧騒に咲き乱れる満面の笑顔に向かって、俺も笑いながら号令をかけた。