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彼とあの人について

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 彼は大抵ろくでもないことを考え付いて、僕を巻き込んでゆく。
「頭が痛いのは、怪我をした心の痛みが遅れてやってきたんだ、だったかな」
「雨が降るのは誰かがどこかで泣いているからだ、とかさ」
「思い出したらちょっとはずかしいや……」
「そうだ! 憶えている限りを今度彼に話して聞かせようじゃないか」
 ああやめてくれよ、アイデアを思いついたときに手に持っているものを振り回す癖はまだ治らないの? 君の好きなペプシ・コーラは振り回すととんでもなく危険な飲み物じゃないか。
「やめなよ、それに手の物を振り回すのもやめてよ、……彼が困るだけじゃないか」
「その姿が見たいのさ! 絶対に面白いんだぞ」
「……君はそうかもしれないけれど」
 困ったような口端の笑みを、曖昧な言葉でうすめて、僕は彼の先に不機嫌そうなあの人を想像する。



 過去のあれこれをやっと穏やかに眺められるようになる頃には、僕も少しは彼に対して強く出ることができるのだろうか、とか、彼はもっと広く穏やかな視野を手に入れられるのだろうか、とか、あの人は今より独善的ではなくなるのだろうか、とか、希望というには拙い、けれど心の籠ったいつか、をどこか描いていた。
――そんなのただの、予想じゃないか。
 予想という言葉でもっともらしく説明がついてしまったので僕はなんだか寂しくなって項垂れる。予想、に含まれないものは得てして個人的で愛すべき余計なものばかりだからだろうか。けれどそれもまたしょうがない。いくら言葉選びを慎重にしたところで、決定的に僕はそう、二人と違っていた。
 あのときそこには一つの輪のようなものがあって、彼らはその内側にいた。僕はその中にはいなかった。
 あの二人の作った輪というものは、複雑な圧力で形作られた、恐ろしく強固でわかりやすく荒れている、そのくせ断絶をぎりぎりのところで許さない、とてもとても厄介な代物だった。要塞のようであり、糸くずのこんがらがったものの集大成のようである――もう何に喩えてもあの、息をのむような脳をかきまわされるような、ただ心に痛い印象は言い表されることが無いのだという自信だけはある。
 あの中に入り込むことは多分たやすい。というより、なるほど自分はたやすく入り込めるところにいたのだ。そして抗うすべもなく半分巻き込まれていたのだった。
 それは悲しくもなければ嬉しくもないことで、突然雨に降られて風邪をひくのと、とても似た現象だったように思う。それ自体が、仕方のないこと、だ。
 入り込んだそこではしかし、複雑な様相の輪そのものにまかれてしまい、僕は手も足も出なかった。中というより、ぎりぎり縁のところにいたと言う方が当て嵌まる僕は、内側のいっとう眺めの良いところから、当事者と傍観者の間で勝手に溜め息をついて、勝手に涙を流した。
 そういう輪はあの二人に限ったものではない。誰にだってあっただろうし、あのときだけを見ても、各々幾つもの輪に絡め取られていて、これはその一つに過ぎなかった。世界は広くて、繋がりは多い、それだけのこと。どれがどれよりも重要だ、という話ではなく、そのひとつだけを取り上げたからといって、他が深刻ではないなんて言えやしない。その人にとって、自分の絡む輪が何にも代え難く大切だというだけで。
 あの人の絡んだ輪は、あのとき、自分の知る他の誰よりも多かった。彼は雁字搦めに見えた。抜け出そうとしないのだから、抗うほどに絡まるばかりだったんだ。
 そのなかでも特別、あの人にとって最も思い入れの強い輪に纏わる諸々は、いつだって程度が甚だしいので思い出すだけでも肩に力が入ってしまう。
 傍観者であることも、決定打となれないことも、自分にとっては幸いであったのか?
 出て行った彼も止め切れなかったあの人も、動かなかった自分を責めなかったじゃないか。
 ただその一点に於いてのみ、後ろ向きな当事者であるところの僕は暗い幸せに浸っている。そう、思っている。



 思い出話をした日のことも忘れかけた頃、彼はあの人と僕を家に呼んだ。あの人はいつもの通り下手なスコーンを持って来た。僕はそれをくすりと笑い、彼はそれを大げさに笑った。ほんの一瞬、昔に戻ったような気がした。



 言語が違う、なんて人はたとえては、正しく言葉が届かないことにやれやれと首を振る。同じ言葉を話していても、そういうことが起こるなんて、考えてみれば奇妙なことだ。
 真実それは、言語が違うのではなく、解釈が決定的にかみ合っていないのだ。だから同じ言葉の持つ意味が、思うように伝わらない。伝えてしまいたいことは双方にある。あった、ように思う。――果たしてあったのだろうか? 伝えたいこと、にも成りきれないわがままな思いは、伝えたいこと、と称していいんだろうか。けれど他人に伝えたいことの殆どなんて、そう正しい思いで出来ているものではなくて、わがままと紙一重なところでくずれた綿のようにほろほろと零れてしまったものなのだろう。
 僕にはあった。伝えたいことがたくさんあった。芋蔓式に纏わりつく別のものを切り捨てることもできなくて、結局口を噤んだ僕は、賢くは無かった。現実のあの人と彼がずれていくのを眺めれば、たとえば目尻を裂かれるように耐え難い、いっとう強い痛みが降ったのだから。



 現在がいつしか過去になって、彼とあの人がやっとまともに喋っていてもはらはらすることが無くなった今、予想は当たったような外れたような、所詮予想やら理想やらはその時の判断材料から導いたものでしかなく、次々に増える新しい変化、を全く知らない頃の自分には決して見得ることのなかった今日になっているのも、仕方のないことだろう。
 幼い僕たちに託した言葉をそっくりそのまま、成長した元弟の口から聞かされたら、あの人ならば「んなこと言ってねーよ馬鹿」とでも一蹴するとしか思っていなかった。
 逸る彼を止めきれずに、むず痒くて甘すぎる思い出が、詫びれもしないその唇から空間に放たれたその時、
「ああ。そういうことも、言ったかも知れないな」
 流すでもなく受け止めたあの人の目が、まぶたが降りて僅かに印象の和らいだ吊り目のふち、金色の睫毛が二回、うらやむように震えたことは、多分この先も一生忘れることができない思い出のひとつになるのだろう。
 隣で、信じられないものでも見たような驚きを貼り付けた彼の表情とともに。
作品名:彼とあの人について 作家名:矢坂*