アナーキー・イン・ザ・ムジーク
暗闇の中、律儀にそう報告してきたフランスの頬は緩み、唇は不格好にひくついていた。仕方がなく電気をつけ、目をこすりつつ観察してやると、ベッド脇に立つ彼の爪は斜めに割れ、薄桃の肉に食い込んでしまっている。明らかに痛そうである。しかしどういうわけか、フランスはどこか嬉しそうでもあった。前々から思っていたことだが、こういう時、彼はとてつもなく不気味だ。悪い顔じゃないんだから、それはやめた方がいい。
――救急箱どこ?
フランスは赤く染まった指を頭の上に掲げると、上ずった声でそう尋ねた。どうやら血が止まらないらしい。
――その棚の中。
親切に指を差して答えてやったのに、フランスは唇を歪ませ、手当てしてくれないの、とつぶやいた。声は細く、まるで迷子になった女の子みたいだ。まったく、大の男が甘えただなんて笑えない。俺と違って器用なのだから、片手でも十分じゃないか、そう首を振ると、フランスは寂しそうに青い瞳を細めた。絵にはなっていたが、いかんせん彼はオーバーリアクションだった。女相手には通じるのかもしれないけれど、ここは俺の家で、俺のベッドルームだ。観客はいない。
――恋人が痛みに苦しんでるのにひどい。
何が恋人だ、そんな関係になった覚えはない。第一俺はもう眠くてたまらないのだ。文句があるなら出ていけ。まだ夜明けには遠いが、ミニ・キャブくらいいくらでもつかまえられるだろう。睨みつけ、布団を手繰り寄せる。しかしフランスは血に濡れた手を抱えたまま、こっちを見つめるのをやめない。
――なあイギリス。
ああ、もう。
――分かったよ!
不本意だが仕方がない。このまま朝までねだられちゃあ寝るに寝られない。そう自分に言い聞かせ、勢いで救急箱を取り、彼の指に消毒液を振りかける。
――なんで暗い中爪を切ったりしたんだ。
とたんに静かになった彼が恐ろしく、仕方なく尋ねると、フランスは肩をすくめ、小さくため息をついた。
――起こしちゃまずいと思って。
――なら家で切れよ。
――人の家で爪を切ると親密になった気がしない?
あんなセックスをしておいて、馬鹿なことを考える男である。どうせ気を使ってくれるんなら、終わったら早く家に帰るとか、もっと別の方面に向けていただきたい。
――しねえよ。お前、感覚がおかしいんじゃないの?
仕方なく答えてやると、フランスは俺の顔をのぞき込み、余裕たっぷりに笑った。まだ甘えているのだろうか? だとしたらどうしようもない、救いようのない馬鹿だ。
――お兄さんとしてはもっと親密なことしたいんだけど。
金色の髪が揺れる。めまいがする。甘酸っぱい彼の体臭に、わずかにかすれた低い声に。
――言ってろ。
朝まであと少ししかない。そろそろ空も白み始めるだろう。そんなちっぽけな時間で、いったい何が出来るって言うのか。
――今時間計ったろ。
フランスが笑う。まるで見透かされたみたいで頬が熱い。
――死んじまえ。
――やらしいー!
大して抵抗しないでいると、フランスの腕が脇腹を探り、喉をくすぐっていった。爪を切ってすぐは痛いってあれほど言ったのに、どうしてこういう肝心なところが抜けてるんだろう。まぁこういうところも彼らしいといえば彼らしい。重要な場面で自分本位だから、他の女とも長く続かないのだ。
――なあ。
フランスが笑う。彼はまるでこの部屋の主みたいな顔をして、中央にすえたベッドに俺を押し倒した。どうしようもない。どうしようもないけれど、夜明けまではあと少ししかなくて、だとしたら俺にはあまり迷う時間はない。
――イギリス、俺としたくないの?
フランスが笑う。こんなねだり方を許したら、きっと次はもっとひどくなるのだろう。けれどもう時間がない。時間は有効に使わなきゃいけない。
――黙ってろ。
なおも続けようとする彼の唇を塞ぎ、あらわになった肩に爪を立てる。フランスは笑い、仕返しにとばかりに腰を引っかき、首筋に噛み付いた。仕方ないじゃないか、これは共同作業なのだ、片方の努力だけではどうにもならない。俺はそう言い訳をして、馬鹿な男の首に腕を回した。
作品名:アナーキー・イン・ザ・ムジーク 作家名:時緒