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游泳

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「はちやくん、あーそぼ」
 そう言った当人も懐かしいのか、悪戯っぽく笑う雷蔵の声は透き通っていて、琴の弦を爪弾くかのように穏やかに響いた。思わず自分も気が緩んで微笑んでしまう。如何に自分が変装の腕を上げたって、雷蔵のように笑えるようにはなれないだろう、ずっと昔から、根拠はないが確信している。
「いーいよ。何をしようか?」
「じゃあ、とりあえず、その饅頭が欲しいな」
 雷蔵は照れたように笑い、静かにひらりと縁側で一人座っていた自分の隣に座ると、大きな笹葉の上に一つ残っていた饅頭に手を伸ばした。
 長屋に戻ってくる前に偶然会った彦四郎と庄左ヱ門が、町へ行ったからと土産にくれたものだった。何も言いもしなかったのに、2人は饅頭を2つ差し出すと「不破先輩にも!」と何の躊躇いもなく言うもので、自分と雷蔵はどうやら後輩達にしっかりと「鉢屋先輩と不破先輩はいつも一緒」と認識されているようであることを、思わぬところで実感した。それが視覚に惑わされてはならない忍者にとって良いのか悪いのかは別として、ああ、でも、決して、悪い気分ではない。そう思った。甘いだろうか。雷蔵はどう思うのか、少し気になる。
 雷蔵は部屋にいたようで、いつも着ている青い装束とは正反対の、白地に薄い青の透かしの入った着流しを着ていた。自分は色の濃い浴衣で、並んでいるとよく分かるその色彩の対比は、自分らをよく知る同輩達は笑うかもしれない。尤も、今五年の長屋は静まり返っていて、誰かが通る気配も感じられない。だから、「廊下で飲み食いするべからず」という一年から耳に胼胝が出来るほど聞かされた言葉を現在形で破っていることも、誰にも咎められない、お互いを除いて。
「これ、美味しいね」
「後輩に気を遣わせてしまった気がして落ち着かないな」
「慕われている証拠だよ、三郎」
「そういうものかねえ」
 そうだとしてもお前には適わないよ、雷蔵。
 言いかけたその言葉は喉元まで出かかると、ひゅっとなりを潜めた。決して世辞ではない。それでも彼のあの謙虚な性格だ、世辞と本心の聞き分けは出来て、それが本心だと分かっても、驕ることをしない。だからこそ、口を衝いて出てくるどこか軽薄な褒め言葉を雷蔵に投げ掛けることはどうしても躊躇われる、というより、馬鹿らしく思える、だろうか。そう思うのは、偏に同じ時間を過ごし過ぎただけなのだろうか、それとも。
 考え事をしながらちんたらと饅頭を咀嚼していたら、雷蔵は既に食い終えて暇していたらしい。
「……『憂い、哀しみ、怒り、歓び、還るは地の果て、海の底。汝巡りて、花咲きぬ』。……」
 懐かしい歌を横で口ずさみ始めた。驚いてそちらを見やると目が合った。雷蔵は懐かしいだろう、と微笑んだ。本当に、懐かしい。気付けば自分の手元からも饅頭がなくなっていたので、手持ち無沙汰なのをどうにかしようと、さっきまで饅頭の載っていた笹の葉を手に取り、思い付くままに折った。
「今、ふっと思い出したよ。何故だろう」懐古の情を隠すこともしない笑顔を浮かべる。
 昔のある時、出会ってまだそう間もない時、そのきっかけは朧げだが、喧嘩という他愛のないものをした後で、仲直りの代わりに雷蔵が自分の前で歌ってくれたものだった。尋ねたら、子守り歌の様なものらしかった。歌の名前は知らない、だけどよく覚えている。聴いたり歌うだけで心が落ち着く。靄がかかったように記憶が曖昧な幼い頃から、唯一ずっと大切にしているものであると。そう言って雷蔵が笑うから、それまで意地を張っていた自分はつい泣いてしまったのだ。
「覚えてたみたいだね、良かった。ちょっと、安心した」
「それを言うなら、雷蔵もだ。てっきり忘れているのだと思っていたが?」勿論、冗談だ。
「そりゃあ、忘れないよ」
 人と共有した、最初で最後の宝物なんだから。
 恥ずかしげもなく、それが当然と言わんばかりの普通の口調で言うと、また歌いだす。雷蔵に合わせて自分も小さく(それは小さく)口ずさむ。還るとは何だろう? 死か? そうであったとして、巡るとは? 花が咲くとは? 少しだけ考えて、やめる。答えはないにせよ、結論を出してしまいたくない、まだ、今は。
 空は穏やかに晴れ、暑くも寒くもない今日の日を喜んでいるかのような天気だ。雷蔵はふと、自分の手の平の笹舟に気付くと指差し、相変わらず器用だなあ、と言う。大したことじゃないと笹舟を指で摘むと、雷蔵は「私はこんなに綺麗に作れないよ」と笑う。
「三郎」
 声がする。懐かしい声、いつも聞いている、いつだって変わらず自分に笑みを向ける者の声。
「いっしょに、あーそぼ」
 立ち上がって、自分の空いている方の手を取り、連れ出そうと悪戯っぽく笑うその表情は、遊戯を楽しむ童子のようで、吹く風のようで、一度だけ咲く花のようで、ぶくぶくと水中を軽やかに泳ぐ魚のようで。
 雷蔵は笑う。何事もないみたいに、まるで時が巡る事のように、水に浮かべれば笹舟の流れる事のように、当然の事のように。
作品名:游泳 作家名:若井