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いちの次はにではなく

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ばたん、と乱暴に閉じられたドアの音に、俺は洗面所から顔だけ出して廊下を伺う。既に誰も居ないそこはしん、として、音の余韻だけが微かに皮膚を震わせた。自室の隣からごそごそと物音が聞こえ、やがて静寂に戻る。兄さんが帰ってきたのだ。俺は口に突っ込んだままの歯ブラシの動きを再開させ、ようくうがいをしてから兄さんの部屋の前に立つ。

「・・・兄さん、帰ってきたの」

 返事はない。予想していたことだった。高校に入ってから、兄さんはいつにも増して怪我をして帰ってくるようになった。しかもきちんと手当をして。めっきり使う機会の少なくなった救急箱を、兄さんは覚えてやしないのだろう。そして怪我の原因も知っている。きっと疲れて眠ってしまったに違いない。兄さんはいつでも俺の心配をするけれど、自分の心配はさせてくれないから。ずるい人だ。臆病な人だ。それでも俺は兄さんを心配する。分かってくれやしないだろうけど。

「兄さん、入るよ」

 きい、と静かにドアを押し開け、真っ暗な部屋に足を踏み入れる。つん、と消毒液の匂いが鼻を突く。兄さんの部屋に薬などないはずなのに、染み付いた匂いが消えることはないのだろう。規則正しく上下する布団に歩み寄り、そっと寝顔を覗き込む。存外疲れた顔をしていた。胸がちりり、と痛む。兄さんは、恋をしていた。俺以外には誰にも知られていないであろう、仄かな恋心。兄さんは、折原臨也について俺に愚痴を言うことはない。小さい頃は、喧嘩した相手について、ソファに肩を並べ兄さんはつらつらと文句を言っていたものだった。一通り話し終えると、ありがとうな、と俺の頭を撫でて。

「・・・・・・」

 けれども、折原臨也については、うぜえ、とか、死ね、だとか、それ以外の言葉は聞いたことがなかった。一度だけ尋ねたことがある。折原臨也ってどんな人なの、と。俺は兄が昔みたいに、嬉々として憎い相手の話を始めることを期待していた。けれど結果は正反対で。兄さんは複雑そうな表情で俺の顔を見つめ、気まずそうに目を逸らした後にこう言ったのだ。幽はあんな奴のことなんか知らなくていい、と。決定打だった。ああ、兄さんは恋をしているのだ。

「・・・兄さん」

 きっと本人すら気付いていない恋心を、俺はそっとそのままにしておく。いつか折原臨也にもバレてしまうのだろうけれど。俺は心の中で、早くその恋が壊れてしまえば良いのに、と思っていた。きっと折原臨也は、兄が自分に好意を持っていると知ったら、散々弄ぶであろう。そうして、そうして、兄さんが逃げ場を求める瞬間を、ああ、ごめんなさい、ごめんなさい、兄さん。俺は良い子じゃいられない。

「・・・し、ず、」

呼ぼうとした名前は音にならない。俺は半分夢のような期待を胸の奥で燻らせながらも、無理なことは分かっていた、から。兄さんの視界に入るのは、いつでもたった一人だと。それでも、兄さんの一番じゃなくても、その次なら、そう思っていた。けれど違う。一番の次は、ないのだ。兄さんの胸の中には、たった一人の一番がいて、あとは同着にすぎない。限りなく二番に近いその他大勢の境界線を保とうと、俺は今だって、今だって。

「…おやすみ、兄さん」

さわり、柔らかな金髪を撫でた。すーすーとした寝息の裏で、一体誰の夢を見ているの。ゆるやかな絶望が足先を突き、ゆっくりと包み込む。貴方の二番になれないのなら、せめてその恋が叶いますように。なんて、思うわけもない午前二時。



(俺に二の、番付を下さい)
作品名:いちの次はにではなく 作家名:椋鳥