浴槽
髪の毛先から零れ落ち、顎を伝った水滴が水面に小さな波紋を作る。
白い浴槽の縁に身体を預けながら、臨也は緩やかに瞬きをした。
落とした視線の先で、バスタブから突き出た金色の猫脚が曇りの無い輝きを放っている。
磨かれた大理石の床が、その様を鏡のように映していた。
「狭いから、やっぱり先に出るよ」
「待、」
バシャ、と派手な水音を立てて立ち上がりかけた臨也の腕を、静雄が慌てて掴む。
腰の辺りまで湯に浸かった中途半端な姿勢のまま、驚いて臨也が振り返ると、静雄は俯いて小さな声で呟いた。
「もう少しだけ、ここにいろ」
唇から零れたのは溜息なのかそれとも、安堵の息なのか。
掴まれた腕が余計な熱を持ったようだった。
元通りに身体を丸めて浴槽に収まった臨也は、暇を持て余したように静雄の髪に手を伸ばした。
「綺麗に染まってる。似合ってるよ、金髪のピアニストなんてあんまり聞いたことが無いけどね」
蜂蜜を零したようだった金髪も、今は濡れてその色を濃くしていた。
濡れた髪を梳くように指を通してから、指先で頬を伝って顎に添える。
そのまま顔を上げるよう促すと、一瞬視線が重なってから、茶色の双眸が行き場をなくしたように宙を彷徨った。
正直な男だ、と思う。
彼の演奏を聴いたことは無かったが、きっと小手先だけの技法で誤魔化すような演奏はしないに違いない。
もっと感情的で、聴く人の真に迫るような、そんな。
それは、さっきまで及んでいた行為にも言えることだった。
適当にあしらう筈の相手だったが、いっそ愚直なまでの態度に絆(ほだ)されて、思わず誘いに乗ってしまった。
一夜だけの微温湯(ぬるまゆ)のような関係を続けてきた臨也にとって、静雄のように直球で妥協を知らない男は最も苦手とする相手だ。
恋愛の経験は無いが、なまじ気持ちが強いだけに、こうして拾ってきた猫を持て余すような状況を生んでしまう。
あれだけ自分を求めてきたくせに、気持ちが落ち着いた途端、目もまともに合わせやしないのだから。
「ねえ、シズちゃん」
「…なんだ」
首を傾げて切れ長の瞳を覗き込むと、弾かれたように目をそらした静雄に思わず溜息を吐きたくなる。
気まずさを多分に含んだ沈黙が、二人の間に横たわっていた。
手持ち無沙汰に水中に降ろされていた静雄の手を取って、てのひら同士を合わせる。
細長く、けれど決して華奢ではない、しなやかな指先。
この指が幾つもの音を奏でて、一つのメロディーを作り出すのだ。
関節ひとつ分近く大きさの違う手に思わず眉を顰めた臨也を見て、静雄は静かに笑った。
吐息のような笑い声が、浴室に木霊する。
二人きりになってから初めて見た柔らかな表情に、臨也は思わず静雄の顔を見つめていた。
真摯な眼差しが、真っ直ぐに臨也を射抜く。
そのまま指を絡め取られ、腕を引かれた。
膝を折り曲げた状態で身を乗り出すと、濡れた唇同士を触れ合わせる。
口端から漏れる湿り気を帯びた吐息が、立ち上る湯気と交じり合って霧散していった。
浸かっている湯と同じ温(ぬる)い口付けに、そのうち我慢が利かなくなったのか、静雄は臨也の背に腕を回して引き寄せる。
静雄の項(うなじ)に手を添えて髪を指で弄びながら、臨也は艶やかな笑みを零した。
それに気付いた静雄が眉間の皺を深くしたのを見て、臨也はますます笑みを深める。
浴槽を滑る音が水に響いて、部屋の壁に鈍く反響する。
押し倒され滑らかなバスタブの縁に背を預けた臨也は、薄い唇で笑みの形を象ると、うっとりと笑って静雄を見上げた。
「ねえピアニストさん、その指で俺が啼かされるのも良いけどさ、今度はちゃんとピアノを鳴かせてるところも聴かせてよ」
ちゃぷ、静かな音を立てて水面が揺れた。
(2010/8/23)
作品名:浴槽 作家名:蒼氷(そうひ)@ついった