伝える気のない愛情表現
人は誰しも、何かしら足りないモノがあるのだろう、と。
元来彼は考え込んで行動するような人間ではない。頭よりも先に、勘が働く。
その動物的なまでに鋭い勘は、幾多も彼の危機を救い、また彼の宿敵を追い詰めた。
「…………」
ゴミを捨てに行こうと、アパートのドアを開くと同時に現れた――正確に言うならば、ドアとぶつかる衝撃音で存在を気付かせた男。静雄の記憶が正しければ、コレが学生の頃から殺し合いの喧嘩を繰り返す宿敵だったはずだ。現状から言って、あまり認めたくはないのだが。
そもそも、彼が常になく頭を働かせたのには意味がある。この目前の男には、何が足りないのだろうかと考えていたのだ。
けれど、いくら考えても足りないものが多過ぎるように思える。性格も悪ければ、根性も悪い。反比例するように顔と声はばかに良くて、それが一層凶悪さに拍車をかけているのだから、それすら長所とは言えないだろう。考えてみれば、短所ばかりの男だ。最悪に卑怯でずる賢い。
蹲っている男を見下ろす事しばし。
静雄は心が囁くままに淡い希望を抱きながら、ドアをゆっくりと閉めた。そしてもう一度開けてみる。
やはりガツン、と鈍い音が響いただけだったけれど。
「――――ぅ、」
流石に二度の衝撃は堪えたようで、蹲っている黒い物体が呻き声を上げた。
「……何すんだよ。やめてよね、俺はシズちゃんと違ってデリケートなんだから」
聞こえてくる声は、いつもの冷涼とした響きは持ち合わせていなかった。吐息を挟みながら、絞り出すようなそれに眉をしかめる。声には隠しきれない疲労の色が見えている。
「………………」
以前の静雄ならば、嬉々として売られた喧嘩を買っただろう。勝手に人の家の前に居座って、ドアがぶつかれば文句を言う。当たり屋もいいところだ。
しかし、静雄は深く息を吸い込んだ。
「―――今すぐ消えるか、それとも殴り殺されるか。選べ」
今の静雄には以前とは違う部分が二つある。
ひとつは、罪歌との戦いをきっかけに力のセーブが出来るようになったこと。
そして、もうひとつは…
「やだなぁシズちゃん。風邪ひいた恋人を看病する甲斐性もないワケ?」
このドアの前でうずくまったまま、微動だにもしない黒い塊の――恋人になったこと。
「……入れ」
静雄の声に、臨也はノロノロと立ち上がる。
余程辛いのだろう。眉を寄せて荒い息を吐いている。その姿が情事の時と重なり、静雄はそっと目を逸らした。
「 」
部屋に足を踏み入れる瞬間、臨也はちいさく何かを呟いた。けれど目を逸らしていた静雄は、その言葉を聞きとる事が出来なかった。
当然の如くベッドを占領した臨也に、静雄はいくつか声をかけた。熱は、食事は、薬は、などという一般的な事だったが、そのどれにも臨也は首を振るだけだった。
「――別に、寝れば治るからほっといて」
だったら自分の家で寝ていればいい。
静雄の頭に過った考えが口から出る事は無かった。本心ではないのだから、仕方がない。
水の入ったグラスを差し出せば、潤んだ瞳で見上げられる。もし臨也が自分の所に来なければ、この表情を他の誰かが見ていたのかと思えば、静雄の心に宿る感情はただ一つだ。
(……おもしろくねぇ)
想像でしかないと言うのに、静雄の持っていたグラスが軋み始める。ふと我に返った時には、もうヒビが入ったそれは容器としての役目を放棄しはじめていた。
「…………なにやってんの、シズちゃん」
「うるせぇ。いいから寝てろ」
強引にベッドに押しつければ、腕の下から数えきれない文句が聞こえてきた。それらを全て無視しながら、静雄は息を吐く。
「――やってらんねぇ」
溜息と共に吐き捨てて、浮かんだ考えを振り払うかのように首を振る。
その様子をぼんやりと眺める臨也は、思い出したように笑みを浮かべた。
多大な妨害を乗り越え、無事にゴミを出してきた静雄が見たのは、ふらふらと覚束ない足取りでベッドから起き上がる臨也の姿だった。
「……何してんだ、テメェは」
何もない空間で足をもつれさせて転んだ臨也に、呆れながらも手を差し出せばパシリ、と跳ねのけられてしまう。眉根を寄せていると、よろめきながらも立ちあがった臨也がいつもと全く変わらない笑顔を浮かべていた。
「シズちゃんの家、居心地悪いし帰るよ」
「………………」
人は誰しも、何かしら足りないモノがあるんだろう、と静雄は考える。
自分にとって足りないのは衝動的な怒りに堪える理性。嫌という程自覚している。
「――テメェは、何勝手な事ばっか言ってんだ?ああ?!」
足りない理性が、目の前の身体を投げつけようとする寸前、静雄の耳に言葉が届いた。
怒りにそまった頭が、すぅっと冷めていく。ただ一言、それだけなのに。
「……だって、迷惑なんでしょ」
たった一言。
それだけで動けなくなった。
嘘臭い微笑みに、寂しそうな声音。静雄は、それがこの男の常套手段だと知っている。
知ってはいるが、この顔と声が、他の誰かに向けられるのはどうにも面白くないと思う自分にも、笑顔の下に隠し切れていない寂しさがある事も、彼は気付いているのだ。
ならば、言うべき言葉は一つしかない。
「……誰もそんな事、言ってねぇだろ」
「言った。態度がもう、そう言ってるもん」
文句ばかりスラスラと出てくる男を、猫の子のように掴みあげ、ベッドに落とせば再びぎゃあぎゃあと口を開き、そして咳込んでいる。
「馬鹿か」
「うっさい…ゲホッ…しね、ばか」
舌足らずな言葉で反論し、そのまま布団を頭から被ってしまった臨也。
その頭を布越しに撫でてみる。
びくりと身体が跳ねたが、静雄は全く持って気にしない。
腕の動きを止める事なく、さてあと何度撫でれば飛び起きて文句を言うのだろうかと頬を緩ませた。
伝える気のない愛情表現
(伝わっているとは、お互い夢にも)
end
作品名:伝える気のない愛情表現 作家名:サキ