怪盗×名探偵 短編集
面食らって思わず舌打ちをすると、キッドの人差し指がコナンの口元にそっと添えられる。布越しにも体温は伝わるのだな、と上質なシルクの肌触りが唇をくすぐった。お行儀が悪い、ということらしい。なるほどスマートなやり方ではある。男児相手でなければの話だが。
呆れるのと同時に身体から力を抜く。別にこのまま攫おうなんて考えてもいないだろう。突然抱き上げられたせいで頭に血がのぼったのか若干眠気は覚めてしまっているが、それでも眠気はあった。
眠ってしまおうか。この男の腕の中で。
「……いや、そりゃねえよ」
「おいおい、俺がいるってのに独り言かよ」
「うっせ」
身体のこわばりが消えたことに気をよくしたのか、キッドは面白そうに話しかけてくる。普段の作りこまれた科白回しではなく、それなりに友人同士の会話のような軽い調子が伝わってきた。探偵相手に怪盗が、怪盗相手に探偵がこの有様とは、よほど考えものだ。
ぬるい風が、コナンの頬をなでつける。粘度のある風。八月中旬の予測できない暑さよりかは随分とマシになった方だ。ゆっくりと空を見上げれば、キッドが言う通りの見事な星々が視界をいっぱいにした。
いつの間にかこんなにも星の位置が変わっていたのか。しばらく空をゆっくり見るなんてことも、していなかった。
「……自由研究とかさ、あったんじゃねえの? なに提出した?」
ぼんやりと星を眺めていると、すぐ近くにあるキッドの顔が更に近くまで寄せられた。そんなに顔を近づけなくても話せるだろう、と二つの顔の間にてのひらを挟み、ぐぐぐ、と顔を押しやってやる。キッド距離とでも呼んでやるべきだろうか。いちいちことあるごとに距離が近くなるのは怪盗の怪盗が持ちうる悪癖だった。
「んだよ突然」
「いやー、俺がお前ぐらいの頃、プラネタリウム作ったなあって思って。紙で作るやつじゃなくて、電池式の回転するやつ」
「……小一でかよ」
「ん? まあ天才だから」
過去を思い出しているのだろうか。キッドの表情にほんの少しの郷愁をみた気がして、コナンはやんわりと視線を外す。キッドが、時折見せる、人間らしすぎる表情が完全に得意かどうかと言えばそうではない。あまり深くまで知りたくはなかった。
「お前もそんぐらいしそうだけど」
「……そこまではしてねえよ。ほんとにガキの頃は……大体が蘭と共同制作でやってたしな」
「今回はあのちびっこたちと一緒じゃないのか?」
「今の俺が手ぇ出していいわけねえだろ」
わかれよ、と睨みをきかせてみても、この格好じゃ様にならない。キッドは目を丸くしながら、なんで、と問うた。
「なんでだ? 別に良くねえか?」
「ガキが一生懸命作ってるもんに手は出さない」
「お前もガキだろ、今は」
「……中身は違うっつったのはお前だ」
「ああ、合法」
ふ、と口元を緩ませるような笑い方をして、キッドはもう一度空を見上げる。少しだけ声が遠くなった。
「だってお前はいつかあいつらの前からいなくなっちまうんだろ?」
「……」
「だったら形に残る思い出ぐらい作らせてやれよ」
コナンからしてみれば、その様子はまるで星に語りかけているように見えた。ロマンチストを自負している男だからだろうか、それも別に不自然じゃない。
形に残る思い出。頭の中で反芻してみる。
星に語りかける男が「形」などと言う様は、浪漫と現実が交錯しているようでもある。
「あいつらもきっと、どっかで分かってるよ。お前がいなくなっちまうことぐらい」
「……思い出に縋るような奴らでもない」
「縋るんじゃなくて、忘れないための財産だろ」
キッドが、誰の話をしているのかわからなかった。
その言葉たちは列を成して間違いなくコナンの元に届いているのに、まったく別の場所に飛ばされているような気もする。キッドはコナンのやりようを否定しているわけでもなく、ただゆっくりと言葉を重ねていった。
「俺の財産は俺自身だ。お前はお前をそのままの形で残すことは出来ないだろうから」
「だから?」
「……十回でも百回でも、いろんなもんをあげときな?」
なにも答えることは出来なかった。
殊更ゆっくりと、キッドの顔がコナンへ届く。その表情はやはり穏やかで、受け流すことは困難なもののように思え、静かに視線を外してみる。所在なく視線をさまよわせた後、仕方なく空を見上げた。これほどまでに満天の星は、しばらく見ることは出来ないだろう。
「なあ」
「……なんだよ」
「お前の目の中に」
「は?」
「星が見えるよ」
そう言って、今までに無いほど顔を寄せられると、視線は互いを向いたまま一度だけ唇が重なった。
キッドのゆるやかな視線に巻き込まれるようにして、なんの警戒もしていなかった自分が信じられない。ほんの一瞬、柔らかい感触を残して唇は離れていった。
「……お、まえ」
「俺はこの一回で十分」
驚きのあまり硬直していると、キッドは静かに身を翻しベッドの方へと戻っていく。そのまま実にスマートな動作でコナンをベッドの上に戻し、コホン、と一度咳をしたかと思うと、次の瞬間には完全に怪盗の表情そのものへと変わっていた。
「では、またいつか――出来ればこんな星空の下で、お会いできることを楽しみにしていますよ。名探偵」
「おい、キッド!」
思い切り手を伸ばしても、あと数センチのところで掴めなかった。波打つように広がるマントが視界を覆ったかと思うと、目にも留まらぬ速度でベランダから姿を消してしまう。白は意図も簡単に夜へと姿を変えた。
残されたのは、何事もなかったかのような部屋と、開け放たれた窓。それだけだ。
その他には何も無い。あの男が居た証明など、どこにもなかった。あれだけ形を残せと言っておきながら、自分は決してそうしようとしない。
小さなてのひら、その指先で、唇に触れてみる。この俺を前にして、持ち去っていくだけだなんて許されないだろう。
「キッド」
なんでも与えるようにして持ち去る男。語るだけ語って全てを置き去りにし、しかしそれは決して形ではなかった。思い出にすり替わるようなものばかりだ。――十回でも百回でも。そう言えるほど甘い関係ではないのは分かりきったことで、口が腐ろうとそんなことは言えない。言わない。
今日はもう、眠れない気がした。
ぬるい風。粘度のある風。夜が長くなり、怪盗が闇に溶けていく。
ああ確かに、夏が終わろうとしている。
作品名:怪盗×名探偵 短編集 作家名:knm/lily