方舟を遠く眺める象の瞳
「誰かを選ぶという事は、誰かを選ばないという事だ」
暖かい、けれどすこし乾燥した部屋の中で、静かに詩集を読んでいると不意にラビの呟きが聞こえた。リナリーはそっと本から顔を上げる。ウィリアム・ブレイク。彼の印刷物はそこそこ人気だけれど、あの一番人気の女性――貴族の寵愛を受けた、には叶わない。彼はきっとそのことを恨んでいる。あの女がいなければ!と。リナリーはブレイクの絵にも詩にもさして興味をひかれなかったが、彼のその、女性に対する限りないうらみつらみそねみのようなものは見ていて興味深かった。しかしすこし息が詰まった。
まさに、息が詰まった、そう思ったときのことだった。
「そうしたの、急に?」
問いかけてマグに口を付ける。中のホットミルクに、気づけば薄い膜が張っていた。リナリーはそれが嫌いだ。すこし顔をしかめて、それでも飲み下した。
この国に来て、教団に来てからミルクを飲むようになった。
「神と、ノアと、それから方舟について考えたことがある?」
質問に答えられていない、思ったけれど、そうやって彼が微妙にはぐらかすように会話を進めることはよくあったので、リナリーは特段気にすることなく返答した。
「そうねえ、その三つを同時に考えないことは逆に難しいんじゃないかしら。方舟について考えればノアを思い出すし、ノアについて考えれば方舟について、そして方舟を作るようおっしゃった神について考えるわ。ただ、神について考えると付随してもっと多くの事を思い起こすから、その二つに限定することは難しいわね」
神と、ノアと、それから方舟。
まるで三位一体のように密接不可分なものだ。
「神はなぜ人間に怒り、ほかの動物まで流されてしまったのだろう?」
それは云ってはいけないことだ、リナリーは思った。
結局のところ聖書なんてものは人間が作ったもので、人間以外の生き物は恐ろしいほどにないがしろにされる。人間が他の生き物を殺すことを正当化するために聖書を作ったとさえ云っていいのでは、とも感じる。
しかしそれは、ここでは云ってはいけないことだった。
いるいないに関わらず、その名と威を借りて己が力を正当化するこの教団の中では。
「それについて、ここで考えるべきではないと私は思うわ」
そっとたしなめる。
けれどラビの隻眼は、挑発するように光を増した。
「今うとうとしながら思ったんさ。もし人間以外の生き物が歴史を伝える術をもっていたら、俺はもっと罪深い歴史を後世に語り継いだのに、って」
「罪深い歴史?」
「そう、人が、人の罪のために人以外を殺す歴史だ」
ラビは挑発しているのだろうか、リナリーは思った。自分を通して、自分のもっとむこうにある大きな力を挑発しているのだろうか。
考え込んでいると、さらにラビは言葉をつないだ。
「神はノアに云った。ひとつがいずつ。きっちりひとつがいずつ。ノアはその言葉の通りにした。けどどうやって動物を選ぶ?人間みたいに罪を犯さない彼らを、どうやってひとつがいずつ選ぶ?そして、どうして神はひとつがいしか許さなかった?何の罪も無いのに。何も神の云い付けに叛いていないのに!」
最後、ラビはほとんど叫ぶように言葉を発した。
ラビ自身、そのことにいささか驚いているようだった。
「どうしたの?一体何があったの?突然・・・そんなこと、具合でも悪いの?」
リナリーはそっと立ち上がり、ラビの背に手をかけ、覗き込むようにうつむく彼の様子をうかがった。
その手が存外冷たいことに、薄着のラビは気づいた。
「ごめん。ただ、ちょっと不安になっただけさ。俺は忘れない。記憶している。その記憶をつぎはぎしたら不安になったんさ」
「どうして?」
「あのさ、もし、俺たちがひとつがいでなかったら?俺らがひとつがいでなかったら、ノアの現れた今、神は俺らをまた洪水で流すのか?」
ああ、彼はただしくキリスト教の繁栄した地で生まれた存在なのだとリナリーは思った。彼は何者にも寄らない、等しく中立である存在であろうとしている。けれど彼の潜在意識は、驚くまでにキリスト教におかされている、この海洋の覇者である島国から遠く東に生まれたリナリーは気づいた。
「いいえ、神は人のためにこの地を呪わないと仰ったわ。彼らは聖書に矛盾している。ノアを騙っているだけなのよ」
優しい言葉でそう云い、優しいリズムで背を撫ぜた。
「死ぬのは怖い?」
「そりゃなあ。まだなんにもしちゃいない」
「そうね。私もきっと怖いわ」
「方舟に乗れなかった象もそうだろうか?」
方舟に乗れなかった像。ひとつがいに選ばれなかった彼の瞳は、何を映しただろう。やまない雨。溢れる水。そっと山の頂から波に乗る方舟。彼は水のむこうからそれを眺め続けたのだろうか。
「きっと象は、私たちの知らない己の罪を恥じたわ」
ラビがどんな言葉を欲しているのか知らない。けれど彼の心が休まる言葉を授けよう、リナリーは思った。
誰も我々を助けない。
神の御名によって戦う我々を、神は加護しない。ああ、知っていたはずなのだ。海峡のむこうの、あのラテン語の卑語を話す国に降り立った聖女だって、焼かれて灰になって川に流された。魂のかけらさえ地上に、天界に残せなかったのだ。
この神を信じないふりをしている、いや努めて神を信じたくないと思っている男をあわれもう。
もうとっくの昔に神様なんて捨ててしまった少女は思った。
神様なんか信じていない。けれど、信じているこの男のために信じているように振舞おう。
遠い昔に死んだ象の瞳の色を思い浮かべつつ、ぼんやりと思った。
作品名:方舟を遠く眺める象の瞳 作家名:おねずみ