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二月二十日日曜日、午前九時。

 部活も引退した今、休日から早朝に起き出す義務から解き放たれ、跡部はひたすら昏々と眠り続けていた。
 普段ならたとえ用はなくともそろそろ起きる時間なのだが、この一週間は忌々しいチョコの年中行事があったり精神的に弱ったりしたこともあって、大分疲れが溜っているらしく毛筋ほども起きる気配はない。依然、健やかな寝息が聞こえるのみ。よほどいい夢を見ているのか、肩まで掛けた布団の端をゆるく握り、寝ていてもしっかり閉じている唇の端がやや上がっている。いつもは深く刻まれている眉間の皺もなく、薄い瞼を閉じるのみ。茶色の長い睫が縁を彩り、滑らかな頬に陰を落としている。
 そんな、すっかり熟睡しきっている彼の安眠を脅かす者が一人、先程から部屋の入り口で悶えていた。
(ああもう、なんて可愛えんや……)
 忍足である。
 跡部の部屋に通して貰ってからすでに三十分は経っているが、その間忍足は跡部の寝顔を見ては見蕩れ、小さく身じろぎするのを見ては悶え狂うということを繰り返していた。
(はっ!あ、あかん、こんなんやってる場合やない。はよ跡部起こさな)
 ようやく我に返った忍足が、まずは部屋中のカーテンを開け放つ。厚い遮光カーテンを開けると、今までの暗さが嘘のように明るい陽光が差し込み、清潔に整えられた調度品達も姿を表した。そして窓を開け、忍足は朝の清々しい空気を一杯に吸い込み、次いで再び跡部が眠るベッドサイドへと移動しては、さっきまでは気付かなかった事実に直面し酷くうろたえた。何事かといえば、さっきまでは暗くてよく見えなかったのだが、横向きに寝ている跡部と顔を付き合わせる形で彼の愛猫も一緒に寝ていたのである。しかも、跡部が動けば猫も。そして猫が動けば跡部もまるで鏡のように同じ動きをしていた。いくら動物は飼い主に似るとはいえここまで似るものだろうかと疑うほどのシンクロ率である。それを計らずも目撃してしまった自他共に認める跡キチの忍足。
(…………な、なんて反則技をっ!)
 あまりの衝撃に立っていられなくなり、がくり、と膝を崩した。勿論倒れる瞬間にすら視線は跡部に釘付けである。
 次第に不穏な邪念を発し始める忍足を後目に、跡部と猫は寒いのか益々顔を擦り付け合うように近付け、更に猫が甘えるように鼻で鳴いた。
(~~~~っ!あかん、もう限界っ)
 最早跡部に萌えたのか猫に萌えたのか判らない忍足は、その衝動のまま跡部の眠るベッドへ勢い付けてダイブする。
「跡部ーっ!」
 健やかな寝顔に邪な想いを向け、今まさに跡部を抱き締めようとしたその時、突然跡部の眼がカッと大きく見開いて、
「死ねコラァっー!」
 荒々しい怒声と共に炸裂した激しい平手打ちの前に、忍足はあえなく撃沈する。
「……あ、愛が見えへん…………」
 そう呟いて息絶える忍足を片足で忌々しげにベッドから払い落とした跡部は盛大に舌打ちをした。
「貴様は一体何度云わせれば気が済むんだ。ああ?毎週毎週引退した途端週末ごとに忍び込みやがって!何度止めろと云っても聞かねえし、部屋の鍵を換えても無駄ときた。毎日毎日会ってんだからたまの休みくらいそっとしておく優しさはねえのかてめぇにはっ!」
 ナァー。
 跡部の剣幕に起きた猫さえも、忍足を向いて冷たく鳴く。
 しかし、相手は忍足である。この程度の冷遇で根を上げる程可愛らしい根性はしていない。すぐさま反撃を試みた。
「そんなこと云っても騙されへんで!今日はいつもの嫌がらせとはちゃうんや。ちゃんと約束してたやんか、忘れたとは云わさへんで!」
「ほう、やっぱり嫌がらせだったのか……」
 良い度胸だ。
 うっかり口を滑らせた忍足の言葉に跡部の額に青筋が浮かび上がる。しかし忍足も負けずに畳み掛けた。
「今はそんな話をしてるんやないやろ。今日は朝からデートする日やから俺迎えに来たんやで!」
 訴えながらも用心深くベッドに登り、跡部に向かい合って座る。
「…………デート?」
 跡部は記憶を探るように首を傾げ、忍足はこくこくと頷いた。
「んんんー…?」
 更に深く傾げる跡部。必死な目をして待つ忍足。
「…………駄目だ、思い出せねえ。よって約束は無効だな。貴様はとっとと帰りやがれ」
 跡部は正座で待つ忍足を無視して再び二度寝をしようと布団に潜り込んだ。
「いーやーやー!ちゃんと約束したやんか今日の十時から出かける約束してたやんかっ。跡部は男と男の約束破るんか?それでもお前は跡部景吾かー!」
 ぐいぐい掛け布団を引っ張っては喚き立てる。それに対して跡部はにべもなく、
「知るかっ」
 と吐き捨てそっぽを向いた。これに酷いショックを受けた忍足は、やや涙ぐむ眼差しで跡部を睨み、ぎゅっと唇を噛み締めてから反撃を開始する。
「……ウソツキ」
 ぼそっとした小さくうめくような言葉に、ぴくり、と跡部の眼の端が動く。
「ウソツキ!」
 今度ははっきりと大きく詰る。跡部の眉間に深い皺が表れ始めた。
「ウソツキ!跡部のウソツキー」
 後はひたすら「嘘吐き」の連呼である。不満一杯に跡部に向かってぶつける忍足はまるで聞き分けのない子供そのものだ。鋭く光る跡部の視線にも負けず繰り返している。
 それに早々と嫌気をさしたのは跡部の方だ。彼は、忍足が意外にも頑固で意固地な面があることを嫌というほど知っている。そんな忍足がこれほど拗れたら、こちらが折れるしか収まらないということも。
 未だ忍足の嘘吐き攻撃は続いている。跡部は深深とうんざりとした溜め息を洩らした。気分は休日にどこかに連れて行けと強請られている父親である。何が哀しくて恋人相手にそんな気持ちにならなくてはならないのか。いい加減、この耳障りな言葉を止めさせなくては。
 跡部はちらりと横目で忍足を窺う。
「ウソツキーウソツキー、跡部の大ウソツキー」
 跡部がこちらを向いたことで微妙に嬉しそうに楽しそうに詰ってくる。忍足にとってはどんな状況であろうとも、跡部の意識が自分に向くと嬉しくなるらしい。そう云う処も小さな子供じみていて、跡部はもう笑うしかない。
 仕方なさそうに薄く笑い、尚も意地になって繰り返している忍足の口を片手でわし掴んだ。
「む、むごっ」
「うるさいっつの」
 跡部は忍足をそのまま引き倒し、上に圧し掛かるように寝そべった。
「ぐえっ」
 蛙が潰れたような声を上げて忍足が呻くと、あまりの色気のなさに跡部が馬鹿にしたように鼻で笑う。むっとした忍足は両腕で跡部の腰を抱え込み、一気に引き寄せて体制を入れ替えた。今度は逆に見下ろす形になった忍足は、機嫌よさげに跡部に顔を近付ける。
「ちゅー」
「調子乗ってんじゃねえ」
 ぺしっと、叩かれてそれでも機嫌の良い忍足は、もごもごと跡部の胸の辺りで頭を落ち着けた。跡部もそんな忍足を邪険にするでもなく、ぽふぽふと頭を撫でている。
 跡部はベッドの近くにある大きく切り取られた窓を見た。
 ガラスの向こうは薄い雲が棚引く冬の青空が広がっている。気温は低そうだが、陽射しがとても暖かそうだった。
作品名:おでかけしましょう 作家名:桜井透子