ざんこくなあなた
盛りを賑わせる蝉の声。
日陰の中でも感じる陽射の強さ、立ち上ぼる陽炎。
じわじわと浮かんで流れる汗をその都度拭いながら、ああ、夏だ、と思う。
夏にしか見ることのできない濃い青空を仰いで、眩しさに眼を細めた。
感覚が遠い。
この暑さも、不快をもよおす湿気も、そして条件反射で高揚する気分もまるで人ごとのように遠く感じる。
甲高く打ち鳴る打球音、ミットが鳴らす捕球音と踏み締めるたび舞い上がる砂埃。いつもと変わらないのに、どうして自分は熱くなれないのだろう。
ふとフェンスの向こうに眼をやって、唐突に何かが足りていないのだと気がついた。
タカヤ!
ああ、確かに今年の夏はいつもと違っている。
足りないのだ、あの人が。
真夏の太陽のように笑う、自分にとって野球そのものだったあの人が。
そして、今まで抱えていたあの人への想いも。
あの時、謝罪と共に告げられた「忘れろ」という言葉に何かが落ちた気がした。
結局あの人は最後まで分からなかったのだろう。
許す、ではなく忘れろと言った言葉にあの人の経験を感じたけれど、自分にとって許す方が忘れるより易かったことを。
でも、忘れろと、言ったから。
あの人への想いごと全部捨てようとしている。
不器用だけど、優しい人だと知っている。
卒業して、念願のプロになってもたまに連絡をくれるし、休みが合えばあちこち連れ出されて振り回されるところも以前と変わらない。
その度にあの笑顔で自分の名を呼んで、それにいつも通りしかめっ面で応えることも、まったく変わらない関係だ。
ただ変わったのは、自分の中。
何年も抱えていたあの人に向かう感情すべて。
削ぎ落として。
不器用だけど優しくて、そして残酷な人。
最後に会ったのは何時だっけ。
あの人のマンションに遊びに行って、そして帰り間際に「また来いよ」と言った。
それに自分らしく捻くれて返して、それが最後。
二度とここには来ないと、心の中で呟いた。
モトキさん。
とても不器用で優しい人だから、今も気にかけてくれているだろう。
でも、不器用で優しくて、そのくせひどく残酷な人だからきっとずっと気付かないままだ。
もう、俺の中にあなたは居ないんですよ。
さようなら、モトキさん。
この胸に深い傷を残した、ざんこくなあなた。