ゆるやかに下降する
*
長いことただの白い壁だと思っていたのが、よく目を凝らしてみると、オオイヌノフグリのような小さな花が描かれている。それは、この広い病室の壁一面に広がっている。知っていたかと問うと、今さら何だと言われてしまった。
窓際に、ぽつりとベッドが置いてある。まるで湖に浮かぶボートのような寂しさである。白い世界の中、彼の金色の髪は美しく映える。夕暮れ時、彼の髪は夕陽の照り返しで一層美しくなる。
いつだったか、彼や仲間と共に脱獄したあの時を思い出す。田舎道を車で走った時に見た麦畑。あれを見たのは朝だった。朝陽を浴びて輝く稲のきらめきは、以前の彼が持っていたものである。今の彼はあの時より少し老いた。時が経ち、暮れ時の穏やかさを身に付けた。
フルーツを盛り合わせたバスケットを手渡すと、彼はアイスクリームが良かったと唇を尖らせた。愛らしく突き出るそれに軽く口付ける。突然の口付けに彼ははにかみながらも、そっと胸板を押し返した。別れが辛くなるからだ。
窓の外は、もう夏だった。病院の中庭に聳え立つ、青々とした立派な木の名前を男は知らない。一度彼に問うたことがあるが、学のない俺にはわからんと言われ、それきりだった。
ガラスに触れるほど葉の群れは大きい。窓を開けると、木漏れ日と共にたくさんの葉がこの部屋に入ってくる。換気のために窓を開けてやると、彼は決まって目を瞑る。晴れた日は木々から洩れる木漏れ日を、雨の日は微かに入り込む雨の匂いを、彼は肺いっぱいに吸い込む。彼は植物のように、それらを自らの養分にしているようだった。
木漏れ日が、彼の顔の表面を覆い尽くす。いくつもの影が、白い肌の上をさらさらと滑っている。彼が外の空気を吸っている間、男は瞼の上を走る、血管の細やかさを黙って見つめていた。
元々色の白い男であったが、この部屋に移り住むようになってからは、なんだか嫌に青白くなった。頬は痩せこけ、稲穂のような髪は以前のような艶やかさを無くした。人々はそれを老いだと言うが、男は、何だかそれだけではないような気がしている。
窓を閉めると、男は慣れない手つきで林檎の皮を剥く。彼は骨と皮だけのような細い腕で、皿に乗る小さな林檎の欠片を口に運ぶ。あまり口を動かさずに咀嚼し、しばらくして飲み込む。男は食も細くなってしまった。皿に乗った林檎のいくつかは、もう茶けてしまっている。
――運の尽き、とでも言うべきかね。
彼が病に倒れたのは、そう言った次の日の出来事だった。
資源に限りがあるように、無限のものなど存在しない。だとしたら、運もそれに当てはまるのだろうか。
この部屋を初めて訪れた時、彼は運を使い果たしてしまったと言った。すべてを受け入れたかのような彼の表情を見て、男は何も言うことができなかった。
そんな男を気遣ったのか、彼はくたびれたように微笑んで言った。
――運を使い果たしたからって、何もすぐさまどん底に落ちるわけじゃない。それは運が悪いってことだ。運がなくなるってのとはまた違う。
だとすると、運が尽きるとはどういうことなのだろうか。男は疑問を腹の底に抱えたまま、彼と季節を二つ巡った。答えは未だに出ないままである。
急に、「旅に出るかもしれない」と彼が言った。男は林檎を剥く手を止め、少しだけ笑う。旅に出るって、一体どこに。問うと、お前は当分行けないところだと、彼は笑顔で答えた。
男は涙が零れそうになるのを必死に堪えながら、俺もついて行ってもいいかと口早に問う。彼はしばらく考えてから、その時は俺が迎えに行くと、男の目を見据えてそう答えた。
最後の運は、そこで使うと笑いながら。
(ゆるやかに下降する/2010.06.05)