ベアリーンの壁の跡
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陰鬱な灰色をした雲影が次第に薄く伸ばされていき、昼のベルリンの街を覆っている。先ほど広場で見た世界時計の「Berlin」はまだ13と少しを示していたというのに、遠くの木陰の下に停まっている薄汚れたスカイブルーのトラバントの持ち主は、向かってくる男を見つけた途端、執拗にヘッドライトを点滅し始めた。クラクションまで鳴らしそうなその勢いを目の当たりにして、ヴェストは頭を抱える。
「ヴェスト、久しぶりだな!」
少し離れた場所にいるドイツに聞こえるよう、男は車から降りた。遠目からでもわかる赤い瞳が、きびきびと歩くドイツを見つめている。
「ああ、久しぶり。兄さん」
トラバントより少し薄い、無地の青いTシャツを身につけたオストは、「じゃあ行くか」とにっこり笑いながら、助手席のドアに手をかけた。湿気で崩れる前髪をドイツは整えながら、「ja.」と言って目を伏せる。
「窮屈か?」
「いや、そうでもない。それよりこの車の方が心配だ」
小型のトラバントは、体の大きな彼が乗ると大きく軋んだ。ヴェストが肩をすぼめるとオストは噴き出して、「俺ん家の車なめんじゃねーぞ」とヴェストの額をこつんと叩いた。
「それじゃ、我が家に出発進行」
バタンと閉められたドアの外、窓越しにオストと瞳が合う。満面の笑みを浮かべている彼ではあったが、頬は痩せ扱け、目の下にはうっすらと隈が出来ていた。何度も洗濯されて色褪せたスカイブルーのTシャツに、オストの体のラインが透けている。逞しい筋肉は削げ落ちて、肌は不気味なほどに青白い。
この人は衰えてきている。それも、急速に。
不意に瞼の奥が熱くなるのを感じて、ヴェストは咄嗟に目頭を押さえた。反対側のドアが開いて、オストが鼻歌なんかを歌いながら陽気にハンドルを握る。
「どうしたヴェスト、泣いてんのか?」
「いや、少し目が疲れただけだ」
「そうか。最近はお前も俺も、忙しいもんな」
俺様ももう、疲れちまったぜ。
ヴェストはその言葉にはっとして顔を上げた。青く濡れた瞳の中、アクセルを踏むオストが静かに笑っている。
(ベアリーンの壁の跡/20090604)