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これからごはんを食べないか

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引退に伴う挨拶回りを済ませたら、何もすることがなくなった。
 
 冬の朝というやつは、なぜにこんなにも布団から離れがたいのだろう。
 後藤は寝返りをうつ。レースカーテンをかいくぐった朝の陽光が、部屋の隅まで満ちてまばゆい。
 枕元の目覚まし時計は8時を過ぎている。目覚ましタイマーは7時。一度起きて分厚い遮光カーテンを開けて布団に入って二度寝した。二度寝の前にヒーターをつければよかったものの、寝起きの頭ではそこまで思い至らずベランダに面した窓と布団との往復に終始したらしい。みたびまぶたを閉じてうたたねする。
 
 次に目を開けた時には9時過ぎ。だらだらと怠惰に過ごすことをとがめる理由もなくまたとがめる者もいない。現役引退して一ヶ月。後藤の生活を制限するものはなにひとつ、ない。
 身じろぎすると、少し空腹を覚えた。だがこれといって積極的に食べたいものもなく、後藤は頭を抱える。誰かが食事を用意してくれているのならばよかったが、3LDKのマンション室内には後藤ただ一人。いずれ増えるだろうと思っていた家族は、結局今も増えていない。遠くで小学校のチャイムが鳴った。
 
 時計の針が正午を過ぎたところで、ようやく布団から這い出た。椅子とひざ掛けを手繰り寄せてヒーターの前に座った。
 しばらく暖をとり、キッチンに向かう。冷蔵庫の中を覗けばパック入り豆腐が半丁と缶ビール、そして卵が二つばかりあった。冷凍庫に霜のついた食パンを見つけて、そそくさと電気オーブンに投げ込む。インスタントコーヒーでそれを流し込み、腹もくちくなったが、使った食器を洗えば、あとは何もすることがなく、後藤は途方に暮れた。テーブルの上のリモコンに手を伸ばしてテレビをつける。ニュース、時代劇の再放送、タレントのトーク番組に情報番組。どれにも興味がもてずに電源を切った。
 
 それにしても、ほんとうに何もすることがない。
 どこかへ旅行にいけばよかったかもしれない。だけど、どこか行きたい場所があるわけでもない。
 部屋の隅にはテキストとビデオの山。引退後の進路に、指導者を選んでから築かれたものだ。年明けにはETUクラブ職員としてスクール生に指導をしながら、コーチングライセンスの取得を目指すことになっている。そんな中・長期的な予定ならあった。だがいま何をするか、あるいは明日どうするかがしっかり定まらない。たったそれだけのことで、簡単に人は絶望してしまえるのだと後藤は実感する。
 
 そうこうしているうちにもう午後二時だ。二時間余りをダイニングの椅子に腰掛けて過ごしたことになる。なまった身体がきしんで痛い。齢こそ三十。世間的には若造だ。しかし身体の具合は、あちこちに物理的な故障をかかえていた。普段の生活には差し障りないものの、ふとしたときに顕れては後藤の気持ちを暗く沈めた。
 とりあえず火急の課題は今晩の夕食だった。冷蔵庫内の状況は芳しくない。ありあわせならば、茹で卵と冷や奴とビール。とてもアスリートの食事とはいえない。
 いや、まてよ。後藤は考える。
 もう自分は、何を食べても構わない立場ではなかったか? と。
 伸び放題の無精髭を剃った。クリーニングタグを剥いで、シャツに腕を通した。久々のデニムジーンズの感触は固い。厚手のコーデュロイのジャケットを羽織って、セカンドバッグを片手に玄関を出る。革靴をならしてエントランスへ。ポストには電気料金の伝票。オートロックの扉を開ければ、自由の海原が待っていた。



 一時間後、自由の海原で後藤は途方に暮れていた。駅前ロータリーで周囲をぐるりと見渡す。改めて見てみると、世の中にはなんと外食店の多いことか。和食洋食中華カレー牛丼。満天の星のようにおりなす店舗を、ひとつひとつ目で追った。ここ一週間は割烹や居酒屋の世話になっていたから、それらはまず除外して、それでも多岐にわたる選択肢に、後藤はやっぱり途方に暮れた。
「後藤さん、何やってるの」
 こんにちは。素朴な黒髪のおかっぱ頭。学校指定のダッフルコートも下町にぴったり、な。
 学校帰りの、永田有里だった。
「あ、有里ちゃん」
 思わぬ人物と出くわして後藤は焦る。焦りのあまり、思わぬ間違いをしでかした。
「これからごはんを食べないか」

× これからごはんを食べないか
○ これからごはんを食べるんだ

「……後藤さん、わたし制服だから、一旦家に戻ってからでいいかなあ」
 あと、父さんか叔父さんもついてくると思うけど。有里は言った。しまった、と後藤が気付いたときには既に遅く、耳まで赤く照れる有り様を有里にからかわれる始末だった。

 ETUの事務所の前で永田親子とおち合い、一軒の洋食屋に向かった。
「現役時代は食べられなかったもの? そりゃあハンバーグとかじゃないか」
 そんな永田の提案に応じた結果だ。
 洋食屋はクラブスタッフの間では有名な店で、大人のこぶしほどの巨大なハンバーグステーキが名物だった。メニューは問答無用でそれに決まって、決まってから後藤は逡巡する。果たしてそんな代物が喉を通るだろうか。
「あのう、俺、食べきれますかね……?」
 思っていたことを口にして、永田親子に笑われた。
「大丈夫、わたしだって食べられるから。後藤さんは大人でしょ」
 有里はニコニコ顔だった。
 
 そうこうしているうちにウェイターが鉄板を運んできた。はい、後藤さんもこうやって! 有里の指示に従って、ナプキンペーパーの両端をつかんで掲げ、跳ねるソースから胸元をまもる。じゅうじゅうと香ばしい匂いと白い煙が上がる。肉汁したたるレア気味のハンバーグ。数年ぶりのハンバーグだった。
 一口食べてしまえば、そこから先はあっという間だった。デザートのヨーグルトまでしっかり完食して家路についた。日はすっかり暮れていた。
「それじゃあ、後藤くん」
 来年からもよろしく。別れ際に永田は言った。他人から言われてはじめて実感する。
 来年の自分はもう、選手ではないのだ。
 夕暮れの景色もあいまって、後藤は少し泣きたくなった。
 水銀灯のあかりの下、永田親子を見送った。近すぎることもなく、遠くもない、父と娘の姿。
 いいな、と思った。
 一足飛ばしで、後藤は子供が欲しくなった。
 まずは実家に帰ろう。後藤は決意する。実家に帰って、見合いをしよう。そう、決めた。