爪を切り損ねた。
普段、切り揃えているよりも何ミリか切り過ぎたのだ。深爪気味の指先は清潔ではあるが生活はしにくくて苦手だった。プルタブはあけにくいし、シールははがしにくいし、なによりベースが弾きにくい。
指先のゆるやかなカーブをじっと見つめて、あーあ、と溜め息混じりに声に出す。
何日かすれば元通りのそれは、けれど、なんとも居心地の悪いものだ。慣れない気持ち悪さと、不便さを考えてげんなりとする。
「どうしたの、指先なんてじっと見て」
すると、後ろからまだあどけなく甘い声が飛んでくる。ヒロ。
ソファに座っている俺の後ろに立ち、ヒロは肩に手を置いてきた。何してるの? もう一度、確かめるようにうかがう声。
「爪、切り損ねて」
「あれ、短い? 深爪? 痛くないの?」
「痛くはないけど」
掲げるように見せた右の指先を、ヒロは手のひらごと奪い上げてしげしげと見つめているようだった。俺の手のひらより幾分と控えめなそれは、けれど体温が高く、熱い。
「痛くないならいいじゃない」
「なんか落ち着かないんだよなぁ、普段と違う、って」
「ふーん」
「あと、不便だろ、なんとなく」
「不便?」
まだヒロの細い指先に弄ばれている指先を、自分でも見つめていた。いくらか長い指先が、たった爪の数ミリ差で不便を感じることが不思議だった。
「ほら、缶ジュースとか、あけにくくないか?」
「……ユゥジ……、それどうでもよくない? ちょっと我慢するだけじゃないか」
呆れた声で、ヒロが付け足した。ダメダメだね。
「缶ジュースなんてそうそう、出てこないでしょ、全く」
「言われてみれば」
「ユゥジって本当、変なところバカだよね」
細い指先たちが、絡むように俺の指と指の間に滑り込んで、にぎりしめられる。そのまま持ち上げられて、ヒロの悪戯めいた声が、正しく響く。
「でもまあ、ユゥジらしいって言えばユゥジらしいけど。じゃあさ、この指先が元通りになるまでボクがユゥジの指先のかわりになってあげる」
切り損ねた爪に、淡い口付けの音がする。