人は見かけによらぬもの
*
――犬みたいだ。
彼のことをそう思い始めたのは、一体いつのことだったか。
短い銀色の髪の隙間から、天を向くように伸びた犬の耳が生えている。欠けた部分の多いそれは、喧嘩っ早いイヴァンらしいものだとジャンは思う。むすっとした顔で座っている、彼の椅子の背もたれの隙間からは、ふさふさとした長い毛が飛び出し、これまた難儀だという風に揺れている。ゆらゆらと揺れる尻尾が愛らしいので思わず手を伸ばすと、驚くほどのスピードで叩かれてしまった。ちらりとイヴァンを横目で見ると、その耳と尻尾の毛を、面白いくらいに逆立てている。警戒心の強い犬だこと。くすりと思わずジャンが笑うと、笑ってんじゃねえ!とイヴァンの怒鳴り声が部屋中に響いた。
「そんなでかい声出したら人が来ちまうぜ」
そう言うとイヴァンはおどおどしながら、銀色の耳をぴんと立てて辺りの様子を窺う。尻尾が降りたのを見ると、どうやらこの部屋の近くに人はいないらしい。いつもそうなのだが、相変わらず犬のような姿になってもわかりやすい彼の仕草に、ジャンは今度こそ気付かれないように小さく笑った。感情の表現が清々しいほどに素直で、なんとも愛らしい。
「…しっかし、まさか本物のワンワンになっちまうとはねぇ」
からかうように言うと、イヴァンが「耳と尻尾が生えただけだ」とまたキャンキャン吠え出したので、彼の口元に人差し指を当てて大人しくするよう促した。イヴァンは不満そうに喉の奥をぐるぐる唸らせながら、剥き出しの犬歯を素早くしまう。まったく、学習能力のないあほ犬め。思わずため息をつくと、「何だその呆れた様子は」と小さな声でイヴァンが噛みついてきた。もう面倒だ。
「イヴァンちゃん」
「…何だよ」
「ハウス!」
「俺は犬じゃねえ!」
「あーまたでかい声出しちゃって~。誰かに見つかったらどうするのけ?こんな姿、ルキーノ達に見られたらどうなることやら」
「うっ…」
ジャンの言葉におびえたのか、イヴァンは耳を左右に動かしながら、先ほどのように辺りの様子を探り始める。その様子を眺めていると、彼の口元からだらしなく唾液が垂れていることに気付いた。おそらく、先ほどキャンキャン吼えたときに口から飛び出たものだろう。
ポケットからハンカチを取り出し拭き取ってやると、イヴァンは目を細めて耳を伏せた。尻尾がゆっくり左右に揺れる。気持ちいいのだろうか。
「ホント犬みたいだな、お前」
「だから犬じゃねえっつうの。…まったく。なんでこんなモノ生えてきちまったんだか…」
ため息をつくと同時に、先ほどまで揺れていた尻尾がだらりと下がる。
「まあ、生きてりゃ不思議なこともあるだろうよ」
「それにしたってよ、犬の耳と尻尾だぜ?どうせならもっとかっこいいのにしろっつう話だ」
「かっこいいのって…ライオンとか?」
「狼とかな」
「いやいや、狼と犬ってたいして変わんねえだろ…」
短めの髪をわしゃわしゃと撫でてやると、イヴァンは目を閉じた。口元がだらしなく緩んでいる。試しに喉元をくすぐってやると、きゅうきゅうと愛らしい声が喉の奥から洩れた。ぱたぱた動く尻尾がジャンの膝をくすぐる。
そのくすぐったさに、ジャンは遠い日――まだ幼かった頃の記憶を、ふと思い出した。
「俺さ、ガキの頃犬飼いたかったんだよね」
「…お前は俺を怒らせてえのか」
「まあまあ、聞けって。…孤児院の近くにさ、きったねえ白い野良犬がいたんだ。そいつが可愛くて可愛くてよ、朝飯のパンをよくこっそりわけてやってたんだ。まあ、タダ飯貰えるって学習したんだろうな。そしたらその犬が仲間連れてきちまって。十匹くらいの犬が孤児院に押し寄せて来たんだ。そのうち俺がエサやってたってシスターにばれちまって大目玉。――だから、今の状況が少し嬉しいんだよね」
「…それは俺が犬代わりだって言いたいのか」
「まあそういうコト」
「お前はまたそう…あーもう頭痛くなってきた。家に帰ってさっさと寝てえ…」
「家?ハウス?犬小屋?」
「ふざっけんな!俺のアパートだよ!つうかお前この状況楽しみ過ぎだろ!」
咄嗟に殴りかかろうとするイヴァンをなんとかなだめようとするも、うまく笑いを止められない。イヴァンはこちらに近づきギャンギャンとまた吼え始めている。ジャンは込み上げる笑いを噛み殺しながら、イヴァンの耳や尻尾を横目で観察する。
怒っていれば逆立つはずの尻尾が下がっている。それに、頭にぺたりと付くくらいに耳が垂れている。
「(まったく…わかりやすいヤツ)」
イヴァンの頭を優しく撫でながら、ジャンは微笑む。
先ほど語った自分の話に少なからず同情してくれているのかと思うと、不思議とこの駄犬が可愛く思えるのだった。
(All are not thieves that dogs bark at./2010.08.19)
作品名:人は見かけによらぬもの 作家名:ひだり