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骨の髄まで

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爪を切り損ねた。俺がそう気付いたのは深夜、やわらかなベッドに体を埋めてからだった。室内灯にかざすようにして見つめた己の貧相な腕、その先にあるだらしない白さ。それをじっと見つめていると、何故だか体の奥底がざわついた。根拠もなければ行き場もない不快感が、じくり、腹の辺りで渦巻く。
 気に食わないな、と呟いてみれば、音の限りなく減った室内にその声は大きく響く。そのことに少しだけ驚いて、ぱたりと腕を落とした。羽根布団が間抜けな音を立ててそれを受け止める。
 腕を落とせば、途端に頭上で瞬く照明に意識が向かう。ちか、ちか、と不快な点灯を繰り返すそれには、夜にまぎれて入り込んだ虫が群がっていた。ベッドの向こう、少し離れたところにある窓はほんの少し開けられて、しっとりと湿った空気を室内に招き入れている。
 闇の方が目に優しいと視線を逸らす。僅かに吹き込む風に揺れるカーテンを何とはなしに眺めた。人工的な光に満ちたこの部屋と、何もない屋外とを仕切る微かな境界。そこを越えて、一気に向こうへ飛び出したなら、果たして何か変わるのだろうか。ふとそんなことを思い浮かべて、けれどたゆたう意識はすぐに引き戻された。

「坊ちゃん」

 目線を動かさなくても、眩しい光源が隠されたことで男が覆いかぶさってきたことはすぐに知れた。ベッドのスプリングが大きく軋む。視界に割り込んできた男の太い腕。見えるよりも遥かに器用な指が、割れものに触れるかのような動きで俺の頬に沿わされる。
 見上げた男の表情は影になってよく分からない。それでも声だけはいつも通り、何が楽しいのかやけに軽薄な気配に満ちている。「もう寝ちゃってるかと思った」小さく言って、頬からこめかみ、額へと手の平を動かし、最後にくしゃりと髪を撫でた。
 前髪を掻き上げられ、空いた箇所へと男の唇が押し当てられる。ちゅ、とやけに可愛らしい音を立てて離れたその部分は、風呂上がりで生温く蕩けていた。妙にふわふわとした感触と温度に、皮膚と皮膚の境目が分からなくなる。
 右手は俺の頭、左手は肩と首の辺りに置いたまま、男がついと体を動かした。俺が何か言う暇も与えないままに、喉仏を甘く噛む。自然仰け反って、は、と浅く息を吐き出した。少し前と同じで、しんとした室内には些細な音もよく響く。自らの息遣いや声―――特にこうも大っぴらには言いたくないことをしているときのそれ―――がそうやって反響するのは何だかよくないことに思えた。投げ出したままだった腕をそろりと持ち上げ、手の甲を唇に押し当てる。
 「……ねえ」鎖骨に舌を這わせていた男が、ふと顔を上げた。腕をずらして目を合わせる。狭い視界で、男の唇がゆっくりと動くのが分かった。「手、」
 何を、とも、離せ、とも、思ったことを何ひとつ口に出せないままに、無駄なく動いた男の腕に手を掴まれ、ぐいと引かれる。俺の体を挟んだ膝立ちのまま半身を起こした男は、大きな手で俺の両手指先を恭しく包み込むと、左、右、と爪の上へキスを落とす。そうしてから、ふふ、と笑ってみせて、指先から手首へ、手首から肘へと、緩やかに指を動かしていった。
 ざっくりと纏ったシャツの上を男の手が這う。薄い生地の上からでも分かる体温に惑わされる内、ふと気付くと俺は、甘えるように男の首へ背へと、こちらの手を回すような体勢になっていた。俺とは違い、風呂上がりにそのまま服を着けずに来たらしい男の、よく鍛えられた体は硬く熱かった。
 え、と間抜けな声が出る。それを聞いた男は一層美しく微笑むと、少しだけ喉を鳴らした。そうして、その笑みも消えないまま、男の唇が俺のそれに近付いて、吐息を感じる程近くのところで囁く。いいんだよ、

「縋りついて、絡め取って、爪を立てて、いいんだよ。……深くまで、刻み込んでよ」

 そう、いっそ、骨の髄まで。
 囁きはまるで毒のようだった。麻痺した頭は途端に働きを鈍らせて、俺は男の言ったことを半分も理解出来ないままに、刺激と快楽の波にさらわれる。
 段々に瓦解し融解し俺の神経は全て可笑しく使いものにならなくなって、それでも唯、何もかも壊れていくような感覚の中で、男の肌に立てた爪が皮膚を裂く、その強さだけは何故だか鮮明に俺の意識の中にあった。がり、がり、と引っ掻く、痛みをもたらす、そんな部分だけが、俺を俺たらしめる全てだった。
 男は痛みに顔を歪めて、それでも最後まで、離せとは言わなかった。それどころか、俺が強い痛みを与える度に、はは、と乾いた笑いを吐き出して、一層強く俺を抱いた。
 最後に何かがぱんと弾けて、俺はそこでようやく腕や足や、その他色々なところから力を抜いた。もう指一本動かすのも億劫だ、と思い、それでも何故かそうしなければいけない気がして、俺の上に崩れるようになった男の肌から、両手をそっと離して目前にかざす。薄い手だ。骨と皮、といった印象しかない、薄い手。
 手の甲、手の平、とひっくり返してまた戻し、最後にまた、手の甲を眺めた。手首の辺りから視線を上げて、最後に行き着くのは十の爪だった。だらしなく伸びた白い部分に、所々紅を散らした、淫らな爪、だった。



(100908/仏英)
作品名:骨の髄まで 作家名:はしま