追憶
ふと気付けば自分の身はタイル貼りの遊歩道の上。
涼やかな空気が辺りを漂い、ひやりとほどよい冷気が路面上をたゆたっているような感覚がある。
空は薄く明るい。
周りは背の高い木々が道沿いに並んでいて、だから空気がいいのだろう。
現実では、ないのだが。
「朝か?」
「朝だな」
呟きを傍にいた人物が拾って、鸚鵡返しのように愛想無く返してきた。
そよぐ風が頬を撫でる。
薄い水色の天は白く細くたなびく雲をそこら中に散りばめていて、
「爽やかなもんだ」
もうそろそろ地平線の上に顔を覗かせようかという眩しい朝日を思い浮べて肩を竦めると、首だけで振り返ってアーサーは口元を歪めた。
「似合わないな、」
お前には。
「知ってる」
両の掌を上向けてもう一度肩を竦めると、前に戻った顔がくく、と笑った。
ぶらぶらと二人連れ立って歩くのは、アーサーの夢の中。
正確に言えば、イームスが無理矢理入り込んだ、アーサーの夢の中だ。
欠伸の一つでもして、もう自分は寝床に戻ろうとしていたときだった。
コブとその相棒はまだ何事か話しこむ様子を見せていて、今日はその後特別に用事も行くところも決めていなかったイームスは、単純に興味をもった。
仕事に関係のあることならイームスが入ったところで差支えはないはずだ。
アリアドネの設計の詳細だけは聞いてはくれるなとは、散々コブから言われていたが、彼女はもう既に自宅に戻った後だ。
彼女がどうのという話ではない。
聞けば、これから何やら試したいことがあるとかでもうひと仕事するのだという。
コブと二人、アーサーが入ろうとしていた夢の中に、おもしろそうだと割り込んだ。
「遊びじゃない」
暇つぶしなら余所でやれ、アーサーは一刀両断に切り捨てたが、そんな対応は別に今に始まったことではない。
どこ吹く風でいいだろうとかケチケチするなこの石頭だとか、柔らかく食い下がると、アーサーは眦をぐ、と上げた。
が、別に構わないだろと苦笑したコブの許しを得て、したり顔でスタッキングチェアにずるりと身を沈めると、呆れ顔のアーサーがケースから引きだしたコードを投げて寄こした。
「余計なことをするなよ」
「さあね?」
諦めたようにアーサーが溜め息を投げた。
アーサーの夢の中に入るのはもちろん初めてではない。
過去に共に仕事をしたときにも何度も何度も共有したことがある。
大抵は几帳面に整えられた世界で、どこか紳士気取りの薫りがする街であったり建物であったり。
けれど今日は随分と様子が違う。
鳥の鳴く音、そよぐ風、光る朝日と、ざわめく緑。
どこか見たことがあるように思うのは、市民の親しむ公園としてそれがありがちでもっとも好まれやすい設計だからなのだろう。
「個性がない」
指摘すると、すかさず応えが返る。
「うるさい」
煩わしさからというよりも、むしろ条件反射的にそういう言葉が出てくるのだろう、イームスに対しては。
イームスはそれすらも楽しんでいるのではあるが。
「コブは?」
「後で合流する」
すたすたと、いったいどこに向かうのか足を進めるアーサーの足取りは淀みない。
と、ふいにアーサーがその足を止めた。
横手の草むらを、どうやら凝視しているらしい。
三歩分後ろを歩いていたのが追い付いてしまい、アーサーの横顔に辿り着く。
いつもならきりりと澄ました顔が、どこか、何か珍しい顔つきをしていて、
「………?」
視線を辿ると、草むらががさりと揺れた。
そこからひょこんと顔をのぞかせたのは、
「…………俺が飼っていた、猫だ」
過去形。
「かわいがってたのか?」
潜在意識が登場させるほどなのだから、それはそうなのだろう。
きっとおそらく、懐かしいだとか愛おしいだとか、そんな感情を抱いているもの。
無駄な質問をしたとイームスは思ったが、アーサーはそれを察してかどうか、無言のままだった。
にゃあ、と甘えた声が足元に擦り寄る。
しばらくじっと動かなかったアーサーだが、やがてゆっくりと身を屈めた。
両手で抱き上げる手つきが思いの外優しくて、イームスはただそれを見つめる。
警戒心の欠片もない様子の猫は、アーサーの顔まで抱えあげられて体をだらりと伸ばして、なぁ、と甘えた声。
目が無くなるほどに細めたアーサーの鼻先を、ちろちろと小さな舌が舐めた。
なんて珍しい顔をするのだろうと思った。
だから、
かわいがっていたのだろう。
それはもう、何にも代えがたいほどに。
「いつ頃、飼ってたんだ?」
こんなに無防備に笑うのだから、おそらく子どもの頃にでも飼っていたのだろうと勝手にあたりをつけていたのだが、
「……先月、まで」
「先月?」
アーサーは、この仕事の前にはコボル社からの依頼を受けていたらしい。
それ相応の期間を準備に費やしていたはずで、依頼はしくじったが、その後そのまま今の仕事に雪崩るように突入したわけだから、当然、アメリカの家などに戻っている訳がない。
忙しく世界を飛び回っているのだから。
猫は死期が近づくと姿を消すというからもしかしたら老齢の猫がどこかに行ってしまったのか、はたまた車にでもはねられたのか分からないが、では、とにかく最期には立ち合えなかったのだ。
にゃあ、
嬉しそうに目を細めた猫が、アーサーの胸に抱かれて鳴いた。
その頭から背中の毛並みゆっくりと撫でる手。
脱力して身を預け切った猫。
にゃぁ、
猫が鳴いた。
アーサーは、
泣いているのだろうか。
いや、あのアーサーに限って、そんなことは、
けれど、
足が勝手に動いていた。
手が伸びる。
そうしなければいけないような気がして。
「………なんの、つもりだ?」
横から包むように抱き込んだ腕の中で、アーサーが掠れた声を出した。
イームスの腕が触れると、猫が小さく身じろいでにゃあと鳴いた。
温かい。
現実ではなくても感覚はリアルで、それはアーサーの意識の投影だ。
こんなにも温かいものを失って、何も感じずにいられるわけがない。
「なんだろうな」
耳の上の髪に顎を埋めて応えると、アーサー愛用の香水がほのかに香った。
「………なんなんだ」
「泣いてるんじゃないかと思って?」
「いらん」
すっぱりと切り捨てたくせに、身を離さないのは、拒まないのはどういうつもりなのだろう。
「アーサー」
「…………」
耳元で呼べば、アーサーが目を閉じた。
にゃあ、
猫が鳴いた。
2010.9.8
ツイッターお題より『早朝の公園/なぐさめる/猫』