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真夏の死

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「もういいのか?葛」



写真館の自室の扉を開こうとノブに手を伸ばした。



すると、ふいに背後から問う声が耳を打つ。否応もなく慣れ親しんでしまった気配。



それに気づかぬとは、我ながら、らしくないと思う。背を向けたまま西尾を見送った時とは、また別種の苦さが葛の胸に広がった。



背後が甘いんじゃないのか、と、揶揄の言葉を放られれば、つい、つられて振り向いてしまう。



貴様には関係ないと突っぱねて、部屋に引きこもるという選択肢は、これで消されてしまった。



詮索するのは趣味ではないと、殊勝な口を聞いておいたくせに。       



やはり葵は、無遠慮で、実に厚かましい男なのだ。秘しておきたい人のうちを暴こうとするとは。



葛の射干玉の瞳に険がこもる。



天窓から差し込む月明かりが、暗闇の奥からくっきりと葵の姿を映し出していた。



からかう響きの声音に反して、葵の瞳はやけに真摯な光を宿している。その光に気圧されて、返す言葉も、取るべき所作も、闇に溶けて失った。



「……葛。本当に、もういいんだな。もう、お前の中でケリはついたんだな」



もう気は済んだのかと、一語一語区切るようにして、再び問われた。それは質問というよりも、聞き分けのない子供を諭す色合いが濃い。



心配という名の葵の無神経さに、ぎりぎりで押しとどめていた何かが、胸のうちで静かに破裂した。



脊髄反射的に、身体が動く。一気に距離を詰めて、葵の胸倉を掴んで強引に引き寄せた。殺しきれぬ勢いのまま、葵の唇に己のそれをぶつける。



がつりとした鈍い音が、合わせた唇の間から生じた。じんとした痛みが唇から頭の後ろへと抜ける。



何を思っているのか、葵は僅かに眉を顰めただけで、葛のするに任せている。



そんな葵の態度に胸が凪ぐどころか、かえって得体の知れない衝動は、狂暴さを深くした。



葛は葵の唇に思い切り強く歯を立てる。そして、葵が怯んだ隙に舌を口内に忍ばせた。



上顎や頬の内側に、ゆるゆると舌を遊ばせていると、錆びた鉄の香が鼻腔を擽る。先ほどの接触で、口のどこかに傷を負ったのであろう。



どちらのものとも知れない血液が、互いに纏いついた舌を伝って、唾液と共に唇の端を彩った。



くちづけの間、双方の瞳は閉ざされることがなかった。



互いの胸のうちを探りあうかのように、互いに相手を逃さぬかのように、視線はきつく絡み合ったままだ。



瞬きすら許さない張り詰めた空気の中で、くちづけだけが、ただ激しさを増していく。



先に瞳を閉じたのは、意外にも葛のほうであった。ぴんと張った睫毛の束が、白くまろやかな頬に影を落とす。



空恐ろしいほどに澄んだ葵の眼差し。あまりにも真っ直ぐなそれに、心の最も柔らかな部分を貫かれる気がしたのだ。



青い血管の透ける薄い瞼の下に、葛は一体何を隠したのか。葛自身にさえも分かりはしなかった。



葛から視線を断ち切られたことを契機にして、今度は葵が葛を引き寄せた。



乱雑な動きに耐え切れなかったシャツのボタンが、ひとつふたつ零れ落ちて、からからと床を鳴らす。



「誘ったのは、あんただからな。逃げるなよ」



どこか切実に響く葵の声が、熱い舌とともに葛の形のよい耳朶にねじ込まれた。瞳は伏せたまま、存外に長い睫毛を微かに震わることで、葛はそれに応える。



しっとりとした重い黒をした睫毛は、月の光を受けて、水を含んで濡れているかに見えた。



先刻までの手荒さが幻であったと思うほどに、丁寧に慎重に壊れ物を扱う所作で、葵は葛を月の届かぬ廊下の闇へと落とした。



そっと触れてきた葵の唇には、まだ血の味が残っていた。



高い体温を有していると思っていた葵の唇は、思いのほか冷たい。闇にほの白く浮かびあがる葛の肌。そこを軽やかに滑る葵の唇は、薄赤い名残を刻んでいった。



低くやんわりとした温度は、夏特有の熱気に火照る肌に沁みて、とても気持ちがいい。葛の目元が知らず知らずに甘く滲んでいった。



喉を侵して、肺腑をじわじわと焦がしていく夏の大気。



ひとつ呼吸をするたびに、一歩、彼の岸へと近づく心地がした。



あるいは、おがらに灯された迎えの明かりの如き蛍火に惹かれて、彼岸を住まいとする人々が、こちらへと渡って来るのか。



いずれにしろ、熱せられた大気は、生臭い死の気配を含んでいる気がした。



だからこそ、夏の空気はどこか冷めた昏さがあるのだ。あてつけがましい陽光とは裏腹に。



あらゆる生あるもの達において、夏は最も命が漲ると同時に、最も死と近しくなる季節でもある。



伊波葛の、いや、岸田琢磨の一番古い記憶は夏にあった。



大方にとっては、色鮮やかであろう季節。しかし、琢磨にとってのそれはモノクロームで満たされている。



忙しなく降り注ぐ蝉の声。煙突から空へとすらりとした煙が昇る。



細くたなびくそれは女性的な優美さを備えている。そしてまた、潔く実直に一途なまでに空を目指す様は、滅私奉国の志を思いださせた。



その煙は、かつては母であった人なのかもしれない。かつては父であった人なのかもしれない。



まだ幼く死というものが理解できなかった琢磨は、父と母は煙に変じたのだと思った。



少し離れたところに、祖母のしゃんと伸びた背中が見えた。常と変わらぬ誇り高い立ち姿に、悲しみの気配を見出すことはできない。



ふいに墨色の着物に包まれた祖母の肩が、瘧のように震えた。



祖母の背がやけに小さく見えたのを、今でもはっきりと覚えている。武士の家に生まれたものは、ああして涙を流さずに泣くのだと、今ならわかる。



銀版写真のざらついた風情を有したそれらの光景は、常に鈍い感傷と共に、夏の空気によって想起された。



白黒の記憶のなかで、西尾だけが色彩を持って存在している。互いの足から流れる血の赤さだけが、網膜に焼き付いて離れない。



痛みに強張る頬を撫でる西尾の手が、燃えるように熱くて、ひたすらに苦しかった。



西尾が夏のような男だとしたら、葵は秋のような男だ。



脳裏にふと浮かんだその考えは、悪くないものに思えた。



夏の太陽にあぶられ疲弊した肌を宥める秋風に似た愛撫。枯れた葉の色をした髪。



そして、優しく朗らかな趣を持つのに、時折ひどく淋しい影を引くところが、秋を思わせるのだ。



ふと瞼を開くと、気遣わしげにこちらを見つめる葵と目があった。



葵の手が伸びて、情交のきざしに熟した葛の頬を包む。ひんやりとした薄い掌は、やはり気持ちがよかった。



ほっと息を吐き出すと、葵が安堵したかのように唇を笑みの形に歪ませる。



無理矢理に組み敷いて、好き勝手に人の身体を暴きたてようとするくせに。容赦なく血肉を貪る肉食獣の目をしているくせに。



こういう表情をして見せるは、葵のずるいところだ。思わず絆されそうになる。



頬を包む葵の手が耳朶の形をなぞって、乱れた前髪をかきあげた。


作品名:真夏の死 作家名:かなめ