しあわせの海
こいつはいつも何の気もなしに触れてくる。たとえばそう、さっき自転車に乗っていた時も。
自分で言っておいて、素直に離れていった熱に名残惜しさを感じたが、それよりも自分の心臓の方が大事。俺がどれだけ我慢してるのか知りもしないで、本当にいい気なもんだと思う。
そんなところも、全部、全部、
しあわせの海
「滝谷!お疲れさん」
ガシャンと音を立てて吐き出されたコーラのボトルを投げつけられる。
心の中で苦笑して、一応の礼を言う。乾ききった喉に炭酸はあまり優しくなかったが、水分さえ摂れればそれでいい。
「早く行くぞ!」
そう言って海に向かって一直線に走りだした小さい背を追いかける。
ズボンの裾を捲り上げ、靴が脱ぎ捨てられる。制止の声を掛けるよりも早く、その足は海にのみ込まれた。
「あー!海だー!磯くせぇー!」
くるりと振り返った芹沢の、満面の笑み。
この男には海が似合う、と思った。似てるのかもしれない。
広いとことか、深いとことか。外から見てたんじゃ、海底深くは決して覗けないとことか。
照り返しの光はきらきらしてギラギラして、直視するのもままならないところとか。
海に、似ている。
「なーに笑ってんだ?お前」
「なんでもない」
自分が笑っていたことに驚いて、それを隠すように彼が脱ぎ捨てた靴を揃えてやる。
「お前も入れよ。気持ちいいぞ?」
蹴りあげられた海面の水飛沫が容赦なく降りかかる。
確かに気持ちいい。
なんとなく、身体が水を欲している気がした。
あぁ、いいことを思いついた。
結局俺も靴とコーラを放り出す。
芹沢の後ろから、片腕で首元を捉えてそのまま天を仰ぐが如く。
「おわっ!?」
ばしゃんと一際大きな水音を立てて倒れ込む。
体に伝わる体温と腕をくすぐる髪の感じが、思った通り気持ちいい。
道連れにした芹沢を解放して、腕をついて体を起こす。
「お前ぇ殺す気か!」
呼吸を整えながら、同じように芹沢が起き上ったところで、するりと言葉流れ出た。
「なぁ・・・多摩雄って呼んでもいい?」
一瞬の沈黙の後、ぶふっとへんな空気音が笑いに変わる。
「お前ほんっとに面白ぇな!今更何言ってんだよばーか!」
「・・・多摩雄」
「なんだー?げんじー」
俺が溺れたのは、きっとしあわせの海。