今だけの、甘い果実
「暑いよ。早く入れてよ。」
ドンドンと戸を叩く音が消えると、そんな声が聞こえてきた。
「臨也さん。」
安普請の玄関の戸がぎいっと音を立てた。外に立っていたのは暑いと言いながら視覚的にはもっとも夏に不似合いな黒いコートの男だった。
ふぅとため息をついた帝人に臨也が箱を差し出した。
「食べよ。」
小さな箱には「桃」と書いてあった。スーパーなどで見かけるパックではなく、きれいな化粧箱に入った高そうな桃だった。
「はぁ。」
気のない返事をして黒い知人を招きいれた。臨也の行動はいつも突然だ。本人にしてみればそれなりに思考をめぐらせた結果なのだろうが、帝人にとってはいつも突然に、しか思えない。
「桃、ですか。」
「うん。すごくおいしそうだったから帝人君と食べようと思って。冷やして貰ったから早く食べようよ。」
暑い暑いと言いながらコートを脱ぐとやはり視覚的には夏に向いていない黒いシャツとズボンだ。
「桃なんか自分で剥いたことないですよ。」
帝人は箱を手にしてちょっと唇をへの字にした。
「ネットで有名なダラーズの創始者様は、ネットの使い方を全くわかっていらっしゃらない。」
笑顔で臨也がパソコンを指差す。
「めんどうです。」
そう言いながらも帝人はパソコンの前に座ると滑らかな手つきでキーボードを打ち始めた。
「桃、むき方」
ずらっと並ぶ文字列を眺めながら適当な所をクリックする。
「・・・へえ、簡単に剥けるみたいですね。」
「じゃあ、簡単に剥いて。」
臨也が帝人の腰に腕を回した。
帝人の肩に顎を乗せて同じ画面を見つめる。
「おいしそうだよ。早く、食べたいな。」
臨也の吐息が帝人の耳にかかると帝人はちょっとだけ首を傾けて臨也の顔を手で押した。
「今剥きますから。」
腰に巻かれた腕をはがしながら帝人がパソコンの前で立ち上がった。
「ちゃんと洗わないとだめだよ。桃の毛ってさ、肌につくとものすごく痛いらしいから。」
「そんなことまでご存知なら、臨也さんが剥いてください。」
「僕、箸より重いもの持ったことないから、包丁とか無理。」
「いつも出すナイフは箸より軽いんですか?っていうか、そのナイフできれいに剥いてくださいよ。」
「気持ちの問題だよ。それにナイフは桃を剥くものじゃなくて人を刺すものだからね。」
帝人はふうとため息をついて目の前の箱を開ける。桃の香りがふわりと漂ってきた。一つ取り出すと臨也の言うように桃はひんやりとしていた。桃にまとわれていた白い緩衝材をはずすと水をかける。
水はぬるくて、せっかく冷えた桃が暖かくなりそうだった。シンクの下から包丁を取り出し桃に包丁をいれようとしていた。
「だめだめ。丸ごと食べたいんだから、切っちゃだめ。」
「もう、じゃあ臨也さんが。」
「君に剥いてもらいたいんだよ。」
猫のように足音を立てずに後ろに忍び寄ってきた。腰をそっと抱きかかえられると帝人は黙って桃の実と皮の間に包丁を入れた。そのまま下に向かって包丁を動かすと面白いほどきれいに剥けた。
「すごく簡単ですよ。」
「いい桃だからね。果物ほど値段と味が正比例する商品はないね。高い桃はすばらしくおいしいよ。」
帝人にはこの桃がいくらするのかわからない。ただ、きれいに剥ける桃に少しだけ感動した。
「剥けた?」
「はい。」
包丁をシンクに置くと臨也は少しだけ帝人から離れた。
「本当に切らなくて良いんですか?」
「うん。帝人君、持ってて。」
帝人の肩をつかむとくるりと回した。臨也と向き合う格好になる。帝人の両手にはきれいに剥かれた桃が包み込まれていた。
「おいしそうだね。」
「はい。」
帝人の腕をつかむとその手に持った桃に歯を立てた。じゅるりという音がして帝の耳に臨也の桃を咀嚼する音が聞こえた。
もう一度桃にかじりつく。そのたびに帝人の腕に桃の汁がたれていく。
「臨也さん、自分で持って食べてくださいよ。」
自分の顔の近くで桃に歯を立てる臨也の目をみて帝人は身体を少しだけ後ろに動かした。しかし、シンクに寄りかかっている帝人にそれ以上逃げる場はない。
「帝人君も食べなよ。」
口の周りに桃の汁をつけた臨也に子どもみたいだと思ったが、ちろりと出た舌に思わず目を奪われた。
「おいしいから。」
そういって臨也が桃に唇を寄せる。帝人は誘われるように桃に唇を寄せ、歯を立てた。同じようにじゅるっと音を立てて臨也が反対側の部分を食べた。
「あまい。」
「うん。」
口の中にある桃はあまり噛まなくても果汁が口の中に広がり、そのまますっと喉を通っていく。
「桃の汁ってさ、洋服につくとシミになるんだよ、ね。」
臨也の手が帝人のタンクトップの裾から入り込む。二口目を食べようとした帝人があ、と声を出したがするりと胸の上までたくし上げられてしまった。
「脱ぎなよ。シミになるよ。」
唇の端を吊り上げきれいに笑った臨也に帝人が眉をひそめたが、そのまま上に持ち上がったタンクトップは帝人の腕を通り過ぎ、桃の近くまで来ていた。
「桃が邪魔で脱げませんから。」
最後の抵抗なのか、桃から手を放そうとしない。
「片手に持てば良いんじゃないの?」
クスクスと笑いながらタンクトップから手を放す。腕にぶら下がったタンクトップがどうしようもなく間抜けに見え、帝人は小さなため息をついて腕からはずした。
「さあ、食べようよ。」
まるでキスをするように桃に唇を寄せ合う二人は両端から少しずつ桃を食べていく。
じゅるり、と音を立て桃を食べると、臨也は帝人の腕に流れた桃の汁をいたずらっぽく舌で掬い取った。
「しょっぱい。」
「さっきまで汗だくでしたから。」
「そう、じゃあどの部分もしょっぱいのかなぁ?」
臨也は帝人の唇の横をぺろりとなめた。帝人が少しだけ目を細めた。
「しょっぱいですか?」
「甘い。」
帝人が種の見える桃に歯を立てた。タネの近くは少しだけ苦味がある。
「桃、もうなくなっちゃいますよ。」
「うん。じゃあ、帝人君食べようかな。」
甘い香りを漂わせた、甘い彼は、今しか食べられない、甘い果実。