佐藤の胸板に八千代が頬ずり
営業が終わった店内の男子更衣室で俺は、心の迷いを言葉に出してみる。
八千代を肩車して、転倒して、告白して、キスして、一悶着あった一日。
結論から言うと俺は八千代に何も訊く事が出来ていなかった。
俺のヘタレのせいなのか、タイミングが悪かったのか、はたまた雰囲気なのか。
忙しかった事もあり事務的な会話しかしておらず、また、何処か切り出しにくい空気もあったのかもしれない。
「二人切り……か」
ラストまでは確かにいたはずの他スタッフが事情を知ってか知らずか、いつの間にか俺と八千代に閉店作業を任せるようにして帰っていった為、残っているのは二人だけだ。
この良くも悪くも謀ったかのような組み合わせは、八千代に真意を訊くのには御誂え向きなのかもしれない。
終業後の店内で。
長年の片思いの末に、突発的とも発作的とも言える衝動で告白とキスをした男と。
それを曖昧とも本心とも取れる本音で以って返した女。
だが、そのやりとりには肝心な部分がどこか抜け落ちているような気がして。
そんな宙ぶらりな関係の男女が二人切り。
静まり返った更衣室で考え込んでいると、休憩室から音がして我に返った。
その音の発生源は向かいの女子更衣室のドアの音のようで。
閉店作業を終えた俺達はそれぞれ一緒のタイミングで更衣室に入ったが、どうやら八千代の方が先に着替え終わったらしい。
「それだけ意識が飛んでいたか……?」
自分に呆れつつも八千代を待たせるわけにはいかないと服に手を掛けると、足音と気配がこちらに近づいてくる気がして手が止まった。
再び、しんと静まる室内。
気のせいか、とドアに向けた視線を戻し着替えを続けると、やがてそれは勘違いではなかったと思い知る事となる。
「さとーくーん。お邪魔しまーす」
「おぅわ、何だ八千代。入ってくんな」
「女子更衣室とあまり変わらないわね」
「何しに来たんだ。というかまず出ろ」
コックパンツから私服のパンツに着替え終え、上も替えようとコックコートとインナーを脱いだところでいきなり八千代が更衣室に入ってきた。
こいつはアホだがバカな行動は取らないと思っていたが。
そのやりとりの間にも八千代はどんどんと更衣室の中に入ってきて奥の俺の方まで距離を詰めようとしてくる。
焦ってばかりの俺とは対象にマイペースだ。
「あのね、お話がしたくて」
「してやるから出てけよ」
「恥ずかしいのさとーくん?」
「はあ? ふざけている場合じゃ……」
「私は恥ずかしいわ」
「おい、何を言って……」
そして、八千代が視界から消えたとほぼ同時に体に軽い衝撃を覚えた俺は、何が起きたのかと理解が遅れた。
……恥ずかしいなら何で俺に抱きついているんだ。
俺の制止を振り切るかのように胸元に飛び込んできた八千代は、まるでスローモーションで、ドラマのワンシーンのような感覚で。
突然の事に息と時が止まる感覚に襲われた俺は、何も対応が出来ずにされるがままになってしまう。
されるがまま?
上半身裸の俺の胸に頬を擦り寄せて深く呼吸をする八千代にされるがままで。
対応って言ったって。
胸で赤面している八千代に何をしてやれば良いのか。
「さとーくんさとーくんさとーくんさとーくん……」
「八千代」
「…………?」
俺の名前を連呼していた八千代が問いかけに反応しゆっくりと上を向くと、蒸気して目元がとろんとした惚けた顔が視界に飛び込んできた。
「なあ、どうしたんだ?」
「…………」
「解からないのか? 言えないのか?」
「……どっちも」
「そうか……」
冷静に対処をした俺は、もしかすると八千代からは冷徹に聞こえたのかも知れない。
俺が多少なりとも取り乱せば、昼間のようにからかう仕種をとってくれたのだろうか?
俺が優しい言葉の一つでも掛けられれば、柔らかく微笑んでくれたのだろうか?
この空間、空気、空虚、空白、思惑と当惑と困惑。
ただただ、八千代は俺に抑えきれない感情をぶつけてくる。
その事実を。
震える八千代の背中に回した腕のように、強めるでも抱き寄せるでもなくそのまま受け入れる。
真意なんて訊かずとも、もう充分に解かる。
言葉ではない、行動で表したこの不器用さ。
八千代なりの精一杯の愛情表現はまだ続きそうだ。
作品名:佐藤の胸板に八千代が頬ずり 作家名:ひさと翼