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紺碧の空 番外編【完結】

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紺碧の空 3





 バースデーパーティーを盛大に行いたいと言う義母からの申し出を丁重に断ったアルフレッドは、納得のいかなそうな彼女に骨身を削って、心を許した人たちだけでリラックスしてゆっくり話がしたいのだと力説する破目になった。そうでなくとも久し振りに帰ったのだから、大勢の招待客に囲まれたら義母さん、俺と碌に話もできないぞと笑って指摘をすると、それもそうよねぇと漸く腑に落ちてくれたらしい彼女だったが。でもせっかくの十八歳のお誕生日なのに家族だけなのも寂しいわ、一番仲良しのお友達だけでもご招待しましょうと押し切られる形で、菊とフランシスの二人を家に招く事になった。
「なんでそこで髭なんだよ!」
 フランシスと犬猿の仲のアーサーは憤慨した口振りで持っていたティーカップをソーサーに叩き付けていたが、大親友の菊を呼んだらパートナーの彼も呼ばなきゃ不公平じゃないかとニッコリ笑って言い返してやった。
 ムードメーカーなフランシスと気配り上手な菊が来てくれたら食事の席は成功したも同然だ。それ以前に彼らとももう長い間会っていなかったので、二人の姿を思い浮かべていたら益々会って話がしたくなってしまった。
 仕事を持っている二人なので急に誘っても来てくれる確証は無かったけれど、電話してみると二つ返事で是非お邪魔します、と言われ、必ず仕事を片付けて駆け付けますからねと約束してくれた。
 金曜の夜に帰省して土曜の昼間は家族だけでのんびりとお茶を飲みながら過ごし(アーサーとは絶望的なまでに仲の悪い上の義兄さんたちはそれぞれ電話やカードで祝ってくれるのみで家に寄る事は無かったけれど)、夜になると来客を知らせるベルが一つ、屋敷内に鳴り響いた。
「アルーお兄さんだよ久し振りー」
「お招きありがとうございます。お言葉に甘えて遊びに来ちゃいました」
 大きなプレゼントの包みと向日葵の花が沢山散りばめられた花束、そして生まれ年のワインを引っ提げて隣国に住む友人達は遥々海を越えてやって来てくれた。久しぶりに会う菊は苦手だと言っていたハグを随分と滑らかにこなせるようになっていたし、フランシスは相変わらずのマイペースで成長した自分を見るなりによによと笑みを深め、ついにアーサーより背が高くなったねぇと何やらとても上機嫌だった。うっせぇよ髭引き毟るぞと超絶不機嫌顔になったアーサーを見て菊はクスクス笑っている。四人で集まった時のこの空気感がアルフレッドは大好きだった。
 義父や義母たちを交えての食事は始終和やかに時が過ぎていった。会話の主導権を握ったのは例外に漏れずフランシスで、彼の如才無い話術にいつの間にかその場に居合わせた皆はすっかり話に引き込まれていく。そして彼は今宵の主役が誰かも良く心得ていて、戦闘機パイロットの卵として一歩を踏み出した自分に、空を飛ぶ時の感覚やそこから見える景色についてを興味深そうに尋ねて来た。
 機体の話を始めるとついテンションが上がってしまい、ヘルメット越しにコックピットから見える海や空の景色を夢中で喋っていると、ダイニングテーブルの上は食事からデザート、紅茶へと変わっていった。一頻り喋り終えた所で場所をリビングのソファに移して、それ以降は男達だけのシックな晩酌会となった。
 義父が用意してくれた上等なスコッチや、フランシスが持ってきてくれた年代物のワインを注いでもらい、すっかり大人の仲間入りを果たしたみたいな済まし顔をしてちびちび舐めながら、こっそり菊の肩を叩いてコーラの方が美味しいぞと耳打ちすると、彼も声を潜めて実は私もそう思いますと悪戯めいた微笑を返してくれたのが嬉しかった。
 



「……?」
 ふとアルフレッドの姿が見えない事に気付いたアーサーは、もう一度ぐるりと室内を見渡して怪訝そうに眉を潜めた。数分前に弟が居ない事を知り、その時はトイレか何かだろうと思って余り気に留めていなかったけれど、再びハッと思い出して壁に掛かっている古い時計を見てみれば、最初に気付いた時かた十分以上が経過している。明らかにおかしいと思った。
 主役が何処に雲隠れしたのだとトイレやダイニングを覗いてみたけれど、発見する事が出来なかったので母に尋ねてみると、つい先ほど自分と話している途中で何やら突然顔色が悪くなって自室に戻ってしまったのだと言う。急にどうしたのかしらと心配そうにしている彼女に自分が様子を見に行くからと言って宥め、その足で部屋に向かってみた。
 弟の自室は二階の西側に位置しており、彼が引き取られた頃からそのまま使用している部屋でもあった。扉の前に立つと、室内には確かに弟の気配はするのだが、しかしノックをしても外から呼びかけても一向に鍵の開く音は聞えなかった。
(アル……?)
 先刻まではとても楽しそうに笑っていたのに、急にどうしたのだろう。
 不意にリビングに居るフランシスと菊の姿を思い出し、客人を放って引き篭もってしまうような無責任な奴では無いと益々訝しい気持ちに拍車が掛かる。
 釈然としない気持ちが強かったが、拒絶されている身としては此処は一旦引くしか術は無い。
「本田、ちょっといいか?」
「あ、はい」
 リビングに戻ってきたアーサーは、フランシスの隣に座ってニコニコと父の話を興味深そうに聞いている菊を手招きして呼び、こっそり事の顛末を話して聞かせた。
「アルが急に部屋に篭っちまったきり出て来なくなったんだ」
「え?」
 驚いて目を丸くしている菊に様子を見に行って貰えるかと頼むと、彼はすぐに表情を険しく切り替えて解かりましたと頼もしく肯いてくれた。
 自分ではアルフレッドに扉を開かせる事は出来なかったけれど、自分とは違う次元で心を開いている菊だったら出来るかもしれない。これはもう直感でしか無かった。
 何度か屋敷に来た事のある彼は弟の部屋を知っていたので、態々案内せずとも迷う事無く客人の脚は二階の西側の部屋に向かっていった。
「アルフレッドさん、本田です」
 菊が弟の部屋の扉を叩くのを、アーサーは少し離れた場所から腕を組んで眺めていた。控え目なノックが四回繰り返された所で蝶番の軋む僅かな音が聞え、菊の身体が室内に吸い込まれていく。その一部始終をずっと見守っていたアーサーは、短く息を吐いて片手でぐしゃりと髪を掻き上げた。
 



 夜も更けてひっそりと静まり返った暗闇の室内で、照明も付けずにベッドに突っ伏してアルフレッドはシーツを握り締めていた。
「……っく、……っ、……ぅ」
 喉の奥からは引っ切り無しに嗚咽が溢れてきて、涙腺の壊れてしまった両眼も絶えず熱い涙を零し続けている。額を押し付けているシーツは既に滴下して冷えてしまった涙でぐじょぐじょに濡れそぼっており、とてつもなく不快だった。だがそれすらも構っていられない程にどうしようもなく哀しくて余裕が無くなっていた。
 少し前にガンガンと乱暴に扉を叩く音がしてアーサーの自分を呼ぶ声が聞こえたが、とてもこんな状態で会える筈は無い。悪いとは思ったけれど兄の声に応える事は出来ずに必死に耳を押さえて外界からの音をシャットダウンしていた。