アーモンドアイドガール
このひとの、目を細めている顔がいちばん好きだった。あまり表情がくるくる変わるひとではないので、その動きにはすごく意味があって、見ているとどきどきする。笑っているのも怒っているのも、どちらもいい。
「今日は、旦那さん帰ってこないんだね」
旦那さんときいて、Nさんはあからさまに、苦虫をかみつぶしました、という顔をした。
「その呼び方だけはやめて」
彼女はグラスをふたつ片付けながら、友達のところに泊ってるのよ、と付け足した。
Nさんが家に住まわせているその男性は、幼なじみ兼、仕事上のパートナー兼、穀潰し兼、用心棒兼、ヒモ兼プラスアルファ、なのだという。そのプラスアルファの部分をあたしは旦那さんと名付けた。彼女はそれをひどく嫌がったので、以来これはあたしお気に入りのからかいの手段となっている。「旦那さん」とは何度か顔を合わせたことがある。見た目は迫力あるけど、邪気のない人であたしはけっこう好きだった。たまに会うと、姉ちゃん痩せてんな、ちゃんと食え、と言ってはトウモロコシなどを持たせてくれた。
ベッドにばふっと横たわって、枕元の目覚まし時計を手に取った。小さいけどちゃんと鐘のついたやつで、時間になるとけっこう強烈な音が鳴る。アラームの針をくるくる回す。くるくるくる。目覚ましのかけ間違いで、すごい時間に起きるあたしとNさんを想像する。明るいと思ったら昼過ぎどころかもう夕方で、慌ててお店を開けたってもう今日の仕事には間に合わないかもしれない。修羅場のような洗面所。
「あなたって退屈とかしないのかしらね」
もうひとり分の体重がかかってベッドが沈む。隣を見ると彼女がベッドの縁に腰掛けてこちらを見下ろしている。
「え?」
こたえてあたしは自分の口元がとてもにやけているのにようやく気付いた。
「それともいつも退屈してるのかしら」
かるく頬をつねられて、うひひ、と笑いが漏れる。ああ、テンション上がっちゃってる。あたしは彼女の手を捕まえて自分の頬にくっつけた。彼女はその手を取られるままにした。長い指、仕事する手、水仕事にも薬液にもまけずきれいな手。
「あたしさあ」
「なに?」
「Nさんとは、もっと、ほんとに、あとくされのない、自由で気持ち良いお付き合いができると思ってたのね。そういうところも、よかったのね」
「なによ」
彼女はすこし目を伏せて笑いながら言った。
「でも、やっぱりだめみたい」
指がかすかにあたしの唇をさぐる。ふわふわした、くすぐったい空気が顔の上に生まれている。
「いっつもそうなんだ、あたし、そうしたいと思っても挫折しちゃうの。すぐに安手のお昼のドラマみたいな気持ちになるの」
そこまで言って、上目づかいで彼女の顔を見上げた。ほら、困った顔をしている。いつもより少しよけいに下がった眉と、細められた目。あたしは結局、こんな顔ばかり、このひとにさせたいんだ。
「Nさん」
「なに」
「Nさんは、あたしが可愛い?」
「可愛いわよ。わたしそういうことで嘘言わない」
「Nさん、あたしの髪いじりたい?」
「いじりたいわよ、あなたいつも、触らせてくれないんだもの」
髪は自分の手で、女子と認識できる程度に短くして、それ以上いじらない、というのが、昔からのあたしのポリシーで、そこは動かしたくなかった。わざわざ彼女にいじってもらうほどの髪でもないと思っていた。そのことを口にすると彼女はまた困った顔をした。それからのあたしは、ただこのひとを困らせるために、自分で自分の髪に鋏をいれていたようなところもあった。
「いじりたい?Nさん、あたしのことどうしたい?どんなふうにしたいと思う?」
彼女は身をかがめて、あたしの一重まぶたに軽く触れ、そこにくちづけた。
「言葉で説明するの難しいわ」
そう呟いて、彼女は言葉のかわりに実践でそれを示しにかかった。
お醤油顔に過ぎる、平坦なあたしの顔面の中から、まぶたという場所を気持ちのいいところとして発掘した彼女の慧眼に、あたしはしんそこ感服していた。それを最初にやられた日付は、あたしのちょっとした記念日として、いまだに正確に思いだせるくらいだ。カレンダーのその日付にあたしは、マルに大きく、恋、とでも書かれた判子を押すべきだったろうか。このひとの口づけが、あたしの閉じたまぶたに、恋、の印を落としていった。だめだ、そいつは割り印だ、目を開けた途端、恋がふたつに割れてしまうことは、はじめからわかっている。
あたしのまぶたから頬、唇もひととおり終えて、その先へ行こうとしていた彼女は、けれど、
「Nさん」
すこしだけ違うトーンになったあたしの声で、動きを止めた。
「シリアスな話」
体を起こした彼女と目を合わせる。
「あたし、これからどうやって生きてったらいいと思う」
彼女は眉根を寄せて、ううーん、と唸った。
「そうねえ」
あたしは少なからぬ期待と、謎のときめきとを寄せて、その眉間の皺をみつめたのだけれど、
「あなたみたいな子は、どうやったって、それなりに苦労するのよ」
「うえーん」
それが二年前の話。
この間、ふいに彼女のことをいろいろ思い出して、そしたら急に髪を切ってもらいたくなって、お店まで行ってきた。
「あなたって!」
彼女はうんと目を丸くして、
「おかしなタイミングで生きてるのね」
あいかわらず綺麗なひとだった。
作品名:アーモンドアイドガール 作家名:中町