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逃げて追いかけた、その後は?

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04:ならば、いっそ、この手で、


手にしていた電話からメモリを引き出し、探していた男の番号を見つけるなり通話ボタンを押した。しかし、聞こえてくるのはツーツーという通話中を示す電子音だった。それから二度目も三度目も一度目と同じ音だけが鳴り響く。震える手で何度もメモリを引き出しては通話ボタンを押したのだが、一向に繋がらない。耳元では人の声ではなく無機質な音ばかりが鼓膜を揺らした。
(何で出ないんだよ……っ)
一向に臨んだ相手に繋がらない状況に、ただでさえ静雄の行動に動揺を隠せないでいる臨也に焦燥を募らせ、最終的には苛立ちが沸き起こる。どうあっても繋がる様子のないこの状況に、臨也は通話中の音だけを鳴らし続ける携帯電話を思いきり床に叩きつけた。ガツンガシャンと嫌な音を立てて携帯電話の蓋が外れ、電池パックが外へと飛び出していく。もしかしたら液晶画面にヒビが入っているかもしれない、そんな破損を訴えるような音だった。しかし、臨也は気にしない。彼にとって自身の用件を果たさないものは物でも――人でも、価値のないもの、ゴミ同然として扱われる。故に床の上に散らばったものを一瞥する事なく、ソファに横になったまま天井を見上げた。

どんな人物が相手であっても、先手を取るように立ちまわっているというのに、今回に限って後手ばかりになっている。それは臨也の中では有り得ない状況である。それだけでも苛立たしいのに、状況はそれだけで収まらない。
妙に、何かを感じるのだ。直接的ではないが、確かに感じているものがある。それはまるで真綿で首を絞められているような、外堀から埋められて行っているような感覚でもある。
静雄がそこまで考えて動くとは思っていない臨也はそう考える度に即座に否定した。だが、本能に近い感覚は一向に消える事はなく、それが却って臨也を追い詰めていく。
勿論、己のそんな心の在り方に気付かない訳がなく、思うようにならない己の感情でさえも苛立たしいと言わんばかりに髪の毛を掻き毟った。
「気持ち悪い……誰がシズちゃんを……」
あの男が向けてきた感情が気持ち悪くてならない。いっその事この首を愛用のナイフで掻き切ってしまえば、全てから解放されるのではないか――。
 臨也はふと起きあがり身につけたままだったジャケットに手を突っ込んだ。すると、慣れた感触がその手にするりと当たる。ポケットから取り出すと、空気を切り裂くような微かな音を立てて飛び出て来たのは、すらりとした刀身のナイフだ。一面ガラス張りになっている所から零れてくる僅かな光を受けて切っ先がキラリと存在を主張する。刃先に指先を押し付け横に引くと、痛みと共にジワリと赤い線が指先にできあがった。
「あぁ、そうだ。そうだった。俺は誰かの手の上で動くなんて真っ平ごめんだ。ましてやシズちゃんの手の上なんて、考えただけで吐き気がする」
そう言い切った臨也は、ナイフが入っていたポケットは別の場所に手を突っ込んだ。すると、床の上で残骸となり果てた物とは別の旗手である携帯電話が姿を現した。そして数分前と同じように、その中に登録されているメモリを漁った。するすると指で液晶画面を操作している内に、見慣れた番号とその上に表示される。
さも当然のように通話ボタンを押そうとした。

だが、その手は突然止まる。
まるでDVDプレーヤーを一時停止させたかのようにピクリとも動かない。

臨也をそうさせたのは、突然臨也の背筋を一気に駆け抜けた悪寒だった。
それは何度も覚えのある感覚で、臨也は座っていたソファから起き上がり周囲を見渡した。しかし、あたりは一面暗闇でガラス張りになっている窓から差し込んでくる夜景の僅かな光の中にある部屋には臨也が感じた悪寒に繋がるものはどこにもない。
それでも臨也は何かが己の身に迫っているという事だけは確かに感じ取った。どろりとしたスライム状のものか蜥蜴のようなは虫類が背筋を這っていく感覚は時を刻むごとに少しずつ強くなっていく。そんな臨也の感覚を確かなものだと伝えるように、ある音がその耳に届いた。コツコツコツ。まるでアニメやドラマのワンシーンのように聞こえてくる硬質な靴音。ガラス張りの一面があるとはいえ、片方はセキュリティの整ったマンションであり、また防音設備もしっかりとしている。それなのに、臨也の耳は確かにその音をとらえてしまう。しかも、その靴が奏でる音とその一定音に聞き覚えがあった。まさか、と思う。しかし、今までの行動から考えられないこともない。臨也はとっさに己の部屋の玄関口とは別の逃げ道へと視線を巡らせた。逃げるなら、今しかない。
そう思い、一歩踏み出した。だが、目前でその足を止めるかのように轟音が響き渡った。幸い臨也の使用しているフロアは自分以外の誰も借りてはいない。階下の人間が翌日に何かしろのアクションを起こすかもしれないが、今の臨也にそれに対しての策を講じる余裕などなかった。轟音の後に聞こえてきたカツン、という靴音は臨也に最後通牒を突きつける判決の音のようだった。
「……よぉ」
「シズ……ちゃん……」
鼓膜を揺らす低い声音に体が過剰なほどに反応する。そのせいで、ボタンを押すだけで繋がっていただろうある男の連絡先を表示したままの携帯電話がするりと臨也の手から滑り落ち、鈍い音を立てて床の上に転がった。
それを見る余裕さえない様子で臨也の双眸は暗闇の中から声をかけてきた相手――静雄を向いたまま動かない。
「手前が俺を拒絶する事なんて最初から分かってた」
そう言って静雄の靴音がまたしても響く。その音で我を取り戻した臨也は近づいてくる気配から逃れるように後ろへと足を動かした。いつものように思考を巡らし、彼がすぐに激高するような言動をすれば逃げる手だては存在していたかもしれない。それなのに今の臨也は目の前にいる男が自分の知る相手ではないような錯覚に捕らわれていた。
「だからここに来たっていうの?俺が逃げないように?」
「あぁ」
ハッキリとそう答えた静雄に臨也はこれ以上ない程に顔を歪めて見せた。いつもは常に先手を打つのは臨也の役目だ。彼を一方的に怒らせて策に嵌めてその様子を楽しむことこそが臨也の最大の楽しみであり娯楽の一つである。しかし、今日はどうだろうか。先程から臨也の行動は常に静雄に先を撃たれ後手に回ってしまっている。今の状況だってそうだ。逃げる手段を静雄は視線一つで臨也から奪い取ってしまった。状況は本人にとって大変望ましくない。思い通りにならない、そのことが彼に苛立ちを与え、無意識のうちに薄い唇を強く噛んでいた。強く強く噛みしめているためにブツリと嫌な音が脳裏に響き、口の中が金臭い臭いと味に染まっていく。しかし、臨也は噛みしめている唇を緩める事はなかった。
互いに互いを睨みあう事で沈黙に満ちた時間が二人の間を流れていく。だが、それも、それほど長くは続かなかった。そうさせる原因は臨也の手に握られている手入れのいき届いた僅かな光を反射させる事で切っ先の鋭さを強調させているナイフがある事だ。
臨也はそれをゆっくりと己の目の前へと突き出し、静雄を睨みつけたまま固く閉ざしていた唇を開いた。
「ねえ、シズちゃん」
「何だ」
いつにも増して赤い舌が僅かに静雄の視界に入る。