晩 夏
窓の外から、引っ切り無しに蝉の声が聞こえる。遮光のために半分閉めたカーテンが揺らぐこともなく、多少風でもあればもう少しましなんだろうけど、なんて思いながら、こめかみから流れる汗を拭った。
長かった夏休みも残りあと一日になり、僕はおおかたの予想に違わず、宿題に追われているというわけだ。普段ならあまり溜め込んだりはしないけど、この夏は色んなことがあって宿題どころじゃなかった。まあ、言い訳でしかないけど。
「こんなときにエアコン壊れるなんて…詐欺だよね…」
天井に近い壁に設置された、今はただの置物のようになっているエアコンを恨みがましく見上げながら、僕はつけっぱなしだったテレビを消した。今日の東京の最高気温は37度だって。聞いただけで熱中症になりそうだ。
もしかしたら、僕と同じ境遇の正臣がそろそろ電話で泣きついてくるかもしれない。そうなると今度は二人して園原さんに宿題を教えてもらおうって話になるかもしれない。園原さんのことだからきっと写させてはくれないけど、根気強く教えてくれる気がする。
そこまで予想できてるんだからさっさと正臣に電話すればいいんだけど、たったひとつ、僕の中で引っかかってること、そのためにどうしても重い腰をあげられずにいる。
どうして期待を捨てられずにいるんだろう。
臨也さんがここにくるはず、ないのに。
期待している自分すら恥ずかしくて、ゆるくかぶりを振ることで意識から彼の姿を追いやると、気を取りなおしてボールペンを握りなおし宿題に向かう。ちょうどその時、
鳴き尽くしたような蝉の声が突然、止んで、
立て続けに2回、インターホンが鳴った。
一抹の期待と、期待したらいけない、裏切られたくない、って気持ち。それらが交差する合間にも、待ちきれないように鳴り続けるインターホンに、ようやく腰を上げた。ここまでくると予想通りな気もするけど、期待って言葉を付け加えたくなくなってくる。
「新聞なら間に合ってます」
「みかどくーん!!!暑い!熱中症になっちゃう!早くいれて!」
ドアを開けるのも、お互いの言葉もほぼ同時だった。返事もきかずに、押しかけるようにして上がりこんだ臨也さんは、あついあつい連呼しながら慌てて靴を脱ぎ始めた。
「…だいたい、そんなコート着てたら暑いに決まってますよ。見てるだけでもあつ」
「これは俺のアイデンティティなの!」
仕方なく鍵をかけて戻ろうとしたら、臨也さんはもう靴を脱いで部屋へあがりこんでいた。僕以外の誰に見られるわけでもない室内ではアイデンティティも関係ないようで、「なにこの部屋!家の中なのに暑いってどういうこと!?」なんて憤慨しながらコートを脱いでいた。
「仕方ないでしょう。エアコン壊れちゃったんですから」
「あれ、そうだったの?それなら言ってくれれば俺の部屋に呼んだのに。もう今日暇で暇で…つい押しかけちゃったよ~」
「いや、あなたが勝手に来たんでしょ…」
飲み物なにかあったかなあ。冷蔵庫を開けると麦茶しかなくて、しかたなくそれを注ぎ分けて持ってくると、臨也さんは扇風機の正面を陣取っていた。あの高級そうな部屋じゃ扇風機なんてないんだろうなあ。声が振動するのを楽しんでいる様を見て、なんだか子供みたいなところもあるんだな、なんて思わず笑ってしまった。
「…む、なに?」
「いえ、扇風機使ってていいですよ。僕、宿題やってますね」
「宿題?」
「夏休みのです。終わってなくて」
臨也さんは、ふうん、と興味なさげにつぶやいた後、またすぐに扇風機に顔を戻してしばらく遊んでた。まあ邪魔されなければいいか。それからしばらく、僕のボールペンがノートを走る音とうるさいくらいの蝉の声、規則的に回転する扇風機の音だけが聞こえ続けていた。
暑さも手伝ってかそろそろ集中力も切れそうになってきて、やっぱりエアコンの効いてる図書館かどこかにでもいこうか、そんなことを考え始めたとき、強い視線を感じて反射的に振り向いた。
「え、あ、臨也さん…?」
「ん、なに?」
「いや、何してるんですか?」
「帝人君を見てるだけだけど」
「…気になるんですけど」
「気にしなくていいよ。ほら、宿題終わらないとまずいんでしょ?続き続き」
無理やりボールペンを持たされてもう一度宿題に向き直るけど、集中力なんてとっくに切れているし、なにより臨也さんの視線が。
不躾とかそういうことじゃなくて、あまりにも気持ちがこもっていて、とても無視するなんてできない代物で。
降参するしかないのは、僕の方だった。
「…臨也さん、もう」
「視線で犯された気分でも味わった?」
「!!ち、ちが…!」
「まあ、そういうつもりで見てたんだけどね」
「!!」
全部聞いていられなくて、立ち上がった。からかわれてたのかな。にやにやと人の悪い笑みを浮かべる臨也さんに、なんだか無性に悔しさがこみ上げる。仕返しを考えあぐねていると、不意に僕の携帯が鳴った。
「?はい、竜ヶ峰で…」
「そこに臨也きていない?」
「え、」
「今日すごい仕事が溜まってるのよ。なのに、仕事より大事な用があるとかいって出ていって…、もしあなたのところにいるならぶん殴ってやるわ」
「……」
声の主は波江さんで、外にまで聞こえてくるほどの声量はいかに彼女が苛立っているかを容易に想像させる。答える前に視線を移動させてみれば、臨也さんはすでにコートを着込んでいて、「時間切れだね」といたずらっぽく笑った。
「……仕事、すごい暇、なんじゃなかったんですか」
「気にするのはそこ?『仕事より大事な用』だよ」
ここでそんなふうに、とんでもないことをさらりと言うから。こういうとき、どういう顔をすればいいんだっけ。頭が真っ白になって、それが全部予想通りって感じの臨也さんの表情が、なんだかいつもより格好良く見えて、それがまたむかついたので、
「ここにいます」
「!み、帝人君!?」
それなら予想できないことをやってやろう、と思ったかどうかはさておき、僕の返事を聞いた波江さんは、今すぐ連れ戻しにくると言い置いて電話を切った。聞こえたらしい臨也さんがびくりと本気で怖がってるような顔をして、慌てて玄関へ走る。
「帝人君ひどいよー!波江に俺を売るなんて!」
「勝手にくる臨也さんが悪いんでしょう。ちゃんと仕事終わらせてください」
「…じゃあ仕事片付けて、連絡してからならいいの?」
「!」
「なるほど、覚えとくよ。またね」
ばたん、とドアが閉まる音で緊張の糸が切れたように、僕はその場にへたりこんだ。室内は相変わらず暑くて、汗が吹き出すように流れる。うるさいほどの蝉の声がそれを助長した。あとに残されたのは、全然進んでいない宿題と、僕らの事情なんかお構いなしに回り続ける扇風機と、そしてあの人の余韻から抜け出せないでいる僕。
暑い夏がようやく、終わる。