More To Life
昼食の後、忍足は屋上に来ては一番日当たりの良い場所で寝転んでいた。空は珍しく澄んだ青色を覗かせ、陽差しは柔らかく降り注ぎお腹は満腹。もう昼寝をする条件は全て揃っている。あえて難を云うならば風が少々冷たいことだろうか。
しかしそれも、隣に跡部がいるならば気になることもない瑣末な事情であるといえた。
そして当の跡部は、忍足の横に膝を立てて座り、同じく空を見上げている。何を考えているのか読めない横顔を晒し、眩しそうに眼を眇めて見ていた。忍足はぼんやりとその横顔を眺めては埒もないことを考えてみたり。曰く、睫も茶色いなあとか、泣き黒子に睫の陰が被さって色っぽいなあとか、風の冷気で少し頬が赤くなってる、などすべての文脈の最後は「可愛い」という単語で括れそうな弛いことばかりである。そんな呑気なことを考えている忍足だが、何だか今日はやけに跡部の口数が少ない気がして少し不審に思った。確かに跡部は日頃から口数の多い方ではないが、それでも自分が傍に居れば何かしらの話題は振ってくるものだ。
しかし今日はそれがない上に、隣に自分が居ることすら忘れていそうな気配がする。そしてもうそろそろ休み時間が終ろうとしているにも関わらず、予鈴を気にする素振りもしない。どこか心ここにあらず、といった風情に原因は何かと思い馳せた。
跡部が気にすることといえば、まず第一にテニスのことが思い浮かぶが、すでに部活を引退した身で何をかかずらうこともないだろう。せいぜい体の鈍りを覚えるくらいだがそれですら跡部は自主練で解消しているはずだ。では何が残るだろうか。
あれこれ考えてはみたけれど思い当たるものもなくて、しかもそれは結局、忍足が見付ける前に跡部自ら明かしてくれる形になった。
遠く、間延びした響きを伴って、午後の授業開始を知らせる予鈴が鳴り響く。あと五分もすれば本鈴が鳴る。
忍足がさてどうするか、と跡部の様子を窺っていると、おもむろに跡部が呟いた。
「ここでお前と過ごせるのも、もうあと少しだな……」
視線は変わらず空に向けられたまま。あまりに小さな声だったので、忍足は聞き間違えたのかと思った。
「何?今日はえらい感傷的やん」
ごろりと仰向けからうつ伏せに体勢を変え、顎に手を当て上目使いに跡部を見上げる。別に揄うつもりで云った訳ではなかったのだが、跡部はそう取らなかったようで、少し不貞腐れたように唇を尖らせた。
「悪かったな。柄にもなく浸っててよ」
ぷぅ、と頬を膨らませる跡部に忍足は内心悶えながらも、表面的には軽く吹き出すに止まる。
「全然悪ないよ。けど、どないしたん?いつもはそんなん思わへんやろ」
じっと見詰めていると、跡部は少し眼を伏せ、そのままころんと忍足の前に上体を倒した。陽射しに暖められたコンクリートのぬくもりに眼を和ませる。
「……別に、今初めて考えた訳じゃない。ただ、ここを卒業したら、俺にはもうあまり時間はねえから」
「……ど、どういうことや」
跡部の弛い口調とは裏腹な、穏やかならざる内容に忍足の顔は強張った。
跡部はそんな忍足を見て小さく溜息を吐く。
「上にあがれば俺は家の都合で忙しくなるからな。かろうじてテニス部に入ることは許して貰ったが、今までのようにはいかないだろう」
そう憂鬱そうに話す跡部の顔には諦めの文字が浮かんでいて、どうやらその件に関してはすでに家族と悶着を起こした後のようだ。
高校まではテニスを続ける。
その最低限の要求は押し通したのだろう、跡部の表情には濃い疲労の色があった。
忍足はそっと跡部の目尻にかかる髪を払いながら、そのまま滑らかな頬を宥めるように撫でる。 忍足の優しい手触りに、跡部はうっとりと眼を閉じた。
「ほなら、上では跡部は部長にはならへんのや……」
妙に感慨深く呟く忍足に、跡部は吹き出した。
「別に部長なんざなりたい奴がなればいい。それに、誰が就いたって同じだろうが」
跡部の軽口に忍足の眼が眇められる。
「ちゃうよ」
柔らかく、しかしはっきりと否定する忍足の眼は惑いなく、戸惑う跡部を見据える。
「全然ちゃう。氷帝テニス部の部長はお前だけや。誰も、何にも代わることはできへん。たった一人、俺らの部長は跡部だけやねん。……きっと、みんなもそう思うとるよ」
跡部は、忍足の言葉に揺らぐ瞳を隠すように視線を下へ向ける。忍足はそんな跡部に軽く笑いながら、微かに赤みを帯びる目元にくちづけた。
「……上にあがってまでお前らの面倒見るなんざごめんだな」
小さく悪態を吐く跡部に忍足は益々眼を和ませながら、跡部の耳元から頬にかけて軽いキスを落としていく。最後に下から見上げる跡部の瞼に唇を落とすと、
「あと三年、思いっきりテニスしよな」
と微笑んだ。
跡部は忍足の首に腕を回し、引き寄せて、肩口に顔を埋める。
「ああ。俺の気が済むまで付き合えよ。……覚悟しておくんだな」
忍足は跡部を抱き寄せて、その確かな感触を味わうように眼を閉じた。いつもは広く、大きく見える背中も抱き締めると、頭にある印象より大分細い。ちっとも柔らかくないし、骨っぽくてごつごつしているけれど、この肩が、背中が、自分達を背負い導いてきたのである。
忍足は労わるように背中を撫でた。重い荷物を背負い続けた彼に無言の賞賛とねぎらいを。
「跡部がもう厭やあいうまでなんぼでも付き合うたるよ」
俺はここに居るから。
悔いのないように、それこそ一生分のテニスをしよう。
麗らかな春、灼熱の夏、黎涼な秋、凍てつく冬。
すべての巡り行く季節の中で、一瞬一瞬、どこを切り取っても君とテニスが共にあるように。
そして願わくば、いつ振り返っても君の傍に僕が在りますように。
これからも、ずっと――――。
作品名:More To Life 作家名:桜井透子